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フィクションに関するprisoner022のブックマーク (5)

  • 「忘れる」ということではなかった - ひびのたわごと

    先日から読み続けていた「平気でうそをつく人たち」をようやく読了した。 平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学 M.Scott Peck 森 英明 草思社 1996-12 by G-Tools 前書きに、 「読者の中にはこのによって苦痛を受ける人もいるだろう」 と断りを入れてある通り、読み進めるのが非常にタフなだった。 また、言いたいことはよくわかるのだが、 いかにせん「われわれは神か悪魔のいずれかに帰依しなければならない」など、 キリスト教的善悪二元論や恣意的な観点も見られ、 その点も読み進めるのに苦労した点の一つだった。 さて、ここからが題なのだが、 このは富野が∀の物語を作るにあたって参考にしたとしても知られている。 そこで、∀放映開始前後から劇場版上映あたりまでの富野資料を渉猟し、 その中からこのに関する発言を集めてみた。 『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペ

    prisoner022
    prisoner022 2008/12/17
    うそをつくのは個の問題ではなく、集団としても国家としてもうそをつく。そのコミュニティにとって不利益なものを忘れる。歴史を改竄できるのが人間なんだ。/これを使えば『ガンダム』の全肯定ができるんだろう。
  • 「耳をすませば」を見て自殺するぼくも「時をかける少女」は面白かった / 空想上の存在というものについて - 放課後は 第二螺旋階段で

    あのね、ちょっとだけ言わせてもらってもいいですか。 この映画は、何一つ救いがない映画ですよ。 実際には、現実には、絶対にありえないことを、思いっきり細部までこだわった現実的な日常の世界として描くなんて、反則以外の何物でもない。 ファンタジーの世界、少女漫画の世界なら、そこにはフィクションとしての前提があり、それに則った作品としているから、見る側にも、救いがある。 それは、受け手が、初めから「嘘の世界」を前提として見ているからだ。 例えば、漫画「奇面組」や「彼氏彼女の事情」など。初めからネタの世界でしょう。 手塚治虫先生の世界でいえば、「ヒョウタンツギ」の登場により、読者は救いを得られる。 ドラマや映画なら、監督がいて役者が演技している裏舞台の世界が前提としてある。 このアニメ作品には、それらが一切無い。 見ている者は、最初の導入から始まり、この映画は日常の世界として知らず知らずにこの世界に

    「耳をすませば」を見て自殺するぼくも「時をかける少女」は面白かった / 空想上の存在というものについて - 放課後は 第二螺旋階段で
  • アニメと「戦争」 そのための覚え書 : 藤津亮太の「只今徐行運転中」

    2007年07月22日01:48 カテゴリ仕事書籍 アニメと「戦争」 そのための覚え書 少し前の『グレートメカニック』に書いた原稿です。「覚え書き」と書いているように、基的にほぼ一晩か二晩で、自宅にある資料で調べられる範囲で書いたので、まだいろいろ補足したいところがあるし、ラストもなんか駆け足で終わってます。 これをベースに長めのものを、という企画を何度か動かしているのですが、なかなか形になりません。 (タイトル) アニメと「戦争」 そのための覚え書き アニメ――特にロボットアニメを中心とする男子向け作品――にとって戦闘は欠かせない。その戦闘を作品の中に位置づける場合、「戦争」というスタイルはある意味不可避ですらある。現実に戦争があり、フィクションが現実の反映である以上、なんらかの形で「戦争」が入り込んでくることは避けられない。 日人にとっての“リアルな戦争”は、突き詰めていけば第二次

    アニメと「戦争」 そのための覚え書 : 藤津亮太の「只今徐行運転中」
    prisoner022
    prisoner022 2007/07/23
    この時点でようやく日本人は、良心の呵責なく語りうる、誰も傷つくことのない戦争を手に入れることに成功した/『ガンダム』で始まった戦争のサブカルチャー化、キャラ化は、『マクロス』でついに完成した
  • フィクション最強の敵は親 - 放課後は 第二螺旋階段で

    富野由悠季は親との間に相当の確執がある、というのは人のエッセイで知っていますが、それを別にしても日の若年層向けフィクションでは「親」という存在が積極的に排除されているものが多いのは気になるところ。 主人公は初めから孤児だったり、物語の開始直後に親が死んで自立を強制されたり。 そして親の代わりにいるのは「師匠」といった、縁を持たない他者で純粋な技能者。 他国でもこんな作風が普通なのでしょうか? 自分でシナリオを作って遊んでいても、親という存在は大きくなりすぎやすくて邪魔だって分かりますけど、何でそうなっちゃうのかは精神分析系の人がの一つでも出していたって全然おかしくないと思います。 もう出てるかも? このエントリの訂正点 自分がいうフィクションに、2000年代のものは入っていません。何故かというと単純に「見てないから」

    フィクション最強の敵は親 - 放課後は 第二螺旋階段で
  • 小さなウソほどむずかしい。 - 絶叫機械

    昨今作られる日戦争を題材にした舞台ってのは、だいたい誰かのために死ぬということが描かれていて、でもそれは嫁さんとか好きな女の子とか母さん父さんありがとうとかになっていて、観るたびにそれはお前欺瞞ではないのか、と思う。これは全然高尚なレベルの話ではなくて、もっとどうしようもない、たとえば昔見た舞台で、彼女や嫁さんや家族もおらん兵隊が、炊き出しのおばさんのために死ぬぞおれは、といって特攻している話があって、クソが、とりあえずそのばばあと一発やってから言え、とか、そういう話だ。 もちろんやるとかやらないとかが重要なのではない。誰かのために死のうにも、相手も何もない連中が大半で、死ぬべき理由もないのに殺されるにはキツすぎるから、天皇がその役目を負ったんではないか。それをお前、炊き出しのおばさんで代替するのはちょっとズルくないか。というわけである。いやしかし、結局やっぱりどう考えたって「何かのた

    小さなウソほどむずかしい。 - 絶叫機械
    prisoner022
    prisoner022 2006/09/01
    さあ死ぬぞ、誰かのために死ぬぞ、となっていてお涙チョーダイ/そういうのは架空の話でやりなさい/いくらでも何かのために死ぬ舞台はそろっている。本当の戦争を、そういう道具に使うな
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