第45回「ジーコのせいだ」藤島 大 すべてジーコのせいだ。とりあえず、それでいいのだと思う。 もちろんジーコを選んだ者も悪い。ジーコの能力の限界を放置した者も悪い。それはそれで検証されるべきだが、まず先に、グラウンド、グラウンドのまわり、ミーティングの部屋において何がまずかったのを確かめるべきである。 サッカー日本代表のどこか淡いようなワールドカップ(W杯)での敗退を眺めて、やけに既視感に襲われた。1999年W杯キャンペーンのラグビー代表に似ている。元オールブラックス、その候補、フィジー代表経験者など6人もの強力な外国人を次々にチームに加えながら、いざ本大会では吹き飛ばされた。負けただけでなく「ジャパンのラグビー」を世界に印象づけられなかった。現場から細々と発信された総括は「個人の能力差」であったと記憶している。 ジーコのジャパンは「日本人のサッカー」を表現できなかった。公正に述べて「失敗
第109回「負ける時もあるだろう」藤島 大 通りがかりの旅人だから姓名はわからない。背番号で記すのを許していただきたい。9月22日、世にも魅力的なグラウンドである沖縄県名護市の21世紀の森ラグビー場、宜野座高校の10番の攻守に心を持っていかれた。全国大会予選のいわば前哨戦にあたる「名護市長杯」の3位決定戦、コザ高校Bとぶつかり、スタンドオフの少年は全身を使命感と責任感の塊として、どこか痛々しいほど真摯に、でも根底では楽しげにラグビー競技に浸っていた。 外部から得たのでなく、自分自身の体験と体感によって培われたのだろうラグビー知識で懸命にチームを引っ張る。小柄ながら走ってよし、タックルも強く、よく動く。時にゲームの組み立てを間違える場合もある。それがかえって将来性を感じさせた。怪物的な身体能力の所有者ではあるまい。全国のどこにでもいそうな無名部員の雰囲気のまま、自分の頭で考え、自分から体を張
第108回「愛があるなら」藤島 大 お暑い盛りでございます。いまラグビー界はそれぞれのチームや個人の目的達成のための鍛練の季節だ。そこで勝利追求について考える。 高校のバスケットボールや柔道界の「体罰=暴力」問題に端を発して、どうも「勝利至上主義」という言葉が根のないまま浮遊している。たとえば、やや旧聞ではあるが、以下の例は典型だ。 ―元プロ野球選手の桑田真澄氏は(6月)10日、柔道女子日本代表の暴力指導問題を受けスポーツ指導の在り方を話し合う文部科学省の有識者会議に出席し、理想の指導者像を「選手と一緒に悩み喜ぶ伴走者」と述べた。今後の方向性を「勝利至上主義から人材育成にシフトすることが重要だとも訴えた。- 桑田氏は誠実に自身の考えを述べている。ただ「勝利至上主義」の定義は、受け留め方によって変わる。通信社配信の記事はこう続く。 ―桑田氏は、選手が失敗しても怒鳴らず褒めるという米大リーグの
第91回「113日」藤島 大 ひとつになる。こわい言葉だ。 今回の震災後、日本列島にも満ちあふれている。本当は「ひとつにならずにすむよう一刻も早い復興を」のほうがふさわしい。ひとりずつの違い、正しく明るいばかりでないはずの個性や現実を「悲劇」が飲み込んでしまうから天災は残酷なのだ。あまりにも圧倒的な現実が「あらゆる違い」を平準化してしまう。 でも、スポーツという限定された空間と時間でなら、まさに「チーム」はひとつになってもらわなくては困る。ラグビーのジャパンももちろん。 チームがひとつになる。まずは人と人の関係。チームワークと同義だ。もうひとつ、「強度」の問題もある。つまり負荷耐性のようなことである。ひとつに強く固まるイメージ。たいがい、両者は相関している。ストレスを乗り越えた経験のないチームワークは砂糖菓子のように甘くもろい。ここは「猛練習の効用」という研究領域にも結びつく。 家電、たと
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