分家の当主・忠良の長男として生まれた貴久は、島津家分家の当主だった島津忠良(ただよし)の長男として生まれました。 このころの島津家は、親戚・分家の自立や、宗家当主の早逝が相次ぎ、その上、宗家14代当主・島津勝久は若年……という絵に描いたようなピンチな場面。 並の武家ならそのまま滅亡一直線という危うさでした。 が、ここで勝久はその後の島津家の運命を決める重大な決断をします。 忠良に相談し、貴久を養子として迎え入れるのです。 翌年、勝久は家督を譲り、貴久は島津家の本拠だった清水城に入り、13歳で正式に島津宗家の家督を継承しました。 勝久は、忠良の本領・伊作(いざく)に隠居。忠良自身は33歳で剃髪して「愚谷軒日新斎」と名乗り、息子の後見に専念します。 「本家がダメだから分家から人を選ぶ」というのはよくある話ですが、島津家ってこういうときの人選が的確なのがまたスゴイですよね。 幕末に篤姫が将軍に輿
豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして行った小田原の北条攻め【小田原征伐】。 ぶっちゃけ、ド楽勝の合戦だった。 なんといっても、当時最強のライバル・徳川家康とタッグを組んだのだから、たとえ関東の大部分を支配する北条氏でも話にならない。 北条側の支城は次々に陥落。 そうした中で、唯一善戦したのが、映画や小説で一躍有名になった『のぼうの城』こと忍城(おしじょう)だ。 城を囲む秀吉軍は、石田三成らに率いられた二万。 一方、城を守るのは、のぼう(でくの坊)の愛称を持つ成田長親で、兵はわずか500。 「これは一瞬で落城でしょう」 と誰もが思っていたのに、なんとなんと……! という展開が小説や映画で知られる『のぼうの城』である。
昨今、最上義光の評価が回復しております。 そうなると最上ファンとしては、義光がこよなく愛し頼りにした、彼の妹・義姫(よしひめ)も評価を上げて欲しいと願ってやみません。 しかし彼女については「妹は無理だわ……だってあの人でしょ」と拒絶反応される方もおられるでしょう。 なぜなら義姫は「息子の伊達政宗を毒殺しようとした」とされていて、真っ先にこのマイナスイメージが浮かびがちです。 それが違うのです。 現在では毒殺事件そのものが捏造とみなされており、義姫についても再評価が始まっております。 彼女は決してエゴを前面に出して無茶するのような人物ではありません。 1623年8月13日(元和9年7月17日)は義姫の命日。 彼女の生涯を振り返ってみましょう。 ※以下は最上義光の生涯まとめ記事となります
日本史で「生き残りをかけた戦い」というと武家の話がほとんどです。 しかし、公家にも公家の戦いがあります。 いかに名誉を保ちつつ、武力を使わず(使えず)に家を守るか――。 そんな様子が大河ドラマ『麒麟がくる』で描かれたのが近衛前久(このえ さきひさ)。 本郷奏多さんが演じられ、見た目は色白かつ線が細いようでいて芯はシッカリしている。 それもそのはず、この前久、史実でも積極的に戦国武将と関わりを持ち、時代の荒波を生き抜きました。 戦国時代の公家としてはちょくちょく名前が出てくるので、すでにご存知の方も多いかもしれません。 では、いったい本人はどんな人物だったのか。 慶長17年(1612年)5月8日に亡くなった近衛前久の生涯を振り返ってみましょう。 謙信の進出を助けるため関東へ近衛前久は、藤原北家(藤原道長等を輩出)の流れをくむ近衛家の長男として生まれました。 そのため18歳で左大臣・関白・藤氏
構成:最上一族とは、義光の一生、義光のその後(家親、家信の動向中心、東北における大坂の陣) 図版:モノクロのみ。ページ各所に図・写真が入る 付録:略年譜、関連文書一覧、参考文献一覧 執筆経緯:山形大学都市・地域学研究所所長となった著者が、山形の歴史や魅力を見直すために最上義光研究に着手。忘れられていた最上関連の文書を多数発見し、地元で発表する。そこへ柏書房社長が執筆依頼をしてきた。 柏版にはあって人物叢書にない、あるいは少ないもの:印判・花押の比較一覧、義姫や妻子ら家族に関する記述、文書一覧 戦国の明星 最上義光 さらに深く学ぶ方に! 著者:片桐繁雄 出版社:最上義光歴史館 価格:1,000円(+送料全国一律360円、現金書留封筒代、手数料) 最上義光研究を地元で続けてきた片桐氏の著書。松尾氏も彼の強力を得て執筆したとのことです。中学生あたりを対象とした地元の英雄伝記という体裁ではあります
日本は地震大国です。 2011年3月11日の東日本大震災から、今日でまだ13年。 『地震大国だってことぐらい知ってるわ』と、思われるかもしれませんが、では具体的にM6.1以上の大地震が、有史以来どんな頻度で起きてきたか?と問われたら、即答できる方は少ないでしょう。 もちろん私も知りませんでした。 なので、今回、ちょいと調べてみたら、驚愕の結果に……。 本稿では日本の地震の歴史をご報告したいと思います。 最初の記録は『日本書紀』の416年日本で最初の地震が記録されたのは『日本書紀』であります。 今回参考にさせていただいた『理科年表』(国立天文台編)では、その地震を「416年」としておりますが、この時代の記述は大変曖昧で、どのような規模でどんな被害だったのかという内容を含めて、真実のところは不明です。 ただ、わざわざ書かれるということは、なかなか大きな揺れだったのでしょう。 では、M6.1以上
よかった、うれしい予想外です。 先週初回視聴率が年間最高になると書いた予想が外れました! とはいえ、視聴率はその回ではなくその全回の評価が反映されますので、まだまだ油断はできません。 今後視聴率が下がったら絶対に「やはり三谷は軽い」とか掌返し来るからな! この表裏比興のマスコミめ! チラホラと既に「言葉使いが軽い」「現代的」という叩きが出ていますけど、よもや同じ口で『八重の桜』の時「わかりにくいんだよね〜」とか言ってませんでしたよね……? いやホント、『八重の桜』は辛気くさい、会津訛りも幕末史わからないし〜と文句つけておいて、今年は軽いだの何だの言っていたら本当に制作側が気の毒だと思う次第ですよ。どうしろと。 地元は、湧いています。 ◆大河「真田丸」地元・長野が熱狂!視聴率30%超え連発(→link) ◆大河「真田丸」出陣 長野で群馬で…観光客誘致へ一気呵成に(→link) ◆市が勝頼ゆか
トルコ北部の城跡を、観光客を増やそうと改修したら、地下から謎のトンネルが見つかりました。この城跡は、その昔ドラキュラのモデルとなった歴史上の人物を幽閉していたとの説があり、関係者を注目させているそうです。 トルコのハリエット・デイリー・ニュースと言うサイトが報じています(2015年6月25日付け)。 全長350メートル。迷宮もあった このトンネルは全長350メートル。今の所は入り口の30メートルぐらいまでしか入れません。サイトから写真を引用させて貰いましたが、立派な造りですよね。 見つかったのはトルコ北部のトカット地方の城跡。セルジュク期からオスマン期にかけて使われた城で、食糧貯蔵庫や兵士が潜む部屋などの施設がありました。観光名所となっており、地元の自治体の文化観光部門では客を増加させようと2009年から修復工事に当たっていました。 そうしたら、こんなトンネルが出てきた他、2つの迷宮も発見
越前の朝倉家に侵攻した織田信長を突如裏切り、一時は絶体絶命のピンチにまで追い込んだ浅井長政。 後に浅井と織田の両家は近江(滋賀県)の姉川で激しい戦闘を繰り広げたが、その様子の描かれた「姉川合戦図屏風」が本日(25日)から福井県立歴史博物館で展示されている。 姉川の戦いは1570年、近江浅井郡(現在の滋賀県長浜市)で行われた合戦で、「信長公記」によると浅井・朝倉13,000の兵に対し、織田・徳川連合軍は不明ながら同規模(かそれ以上)の軍勢でもってこれを撃破。 朝倉家では刀身約175cmもの「太郎太刀」を振り回した豪傑・真柄直隆や、浅井家では重臣の遠藤直経などが討ち取られたばかりか、支城の横山城を落とされて木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が城番に入り、同地域での勢力図が一気に塗り替えられる契機となった。 戦国史に名を残す激しい合戦だったこともあり、その屏風には歴史ファンの想いを引き寄せる魅力が詰まっ
長い日本史において今なお最大のミステリーとされる【本能寺の変】。 天正10年(1582年)6月2日に起きました。 変の首謀者は言うまでもなく明智光秀です。 まず事件の全貌は以下の通り。 毛利氏との全面対決を意図した織田信長が、光秀に豊臣秀吉への加勢を命じ、これに応じた明智軍13,000が6月1日夜に丹波亀山城を出発。 進路を突如京都の中心地へと変え、6月2日未明、ほとんど守備兵のいない本能寺に襲いかかった。 衆寡敵せずして、織田信長は敗死。 しかし、その後、遺体は見つからず生存説も流れるほどで、おそらくや燃え盛る炎の中で灰燼に帰したのであろう。 天下統一を目前にしてのこの悲劇――。 と、我々現代人の心を掴んで離しませんが、この事件が今なお注目度が高いのは、やはりこの問題が解決されないからではないでしょうか。 【なぜ、明智光秀は織田信長を襲ったのか?】 何十年も論争されていながら、その答えは
中学校までは皆ほとんど同じように歴史を習いますが、その中で大人になるまで覚えている出来事や人名となると、おそらく半分もないのではないでしょうか。 歴史好きからすると哀しい話ですが、あんなに「暗記しろ!」とだけ言われてたらほとんどの人は興味を持つヒマもないですものね。いい先生だと面白い余談をしてくれるんですが。 そういうワタクシも古代~近世担当の先生は面白い方だったので授業の中身も覚えておりますが、近現代史の先生は「プリントのここに赤線引いといて^^」しか言わない人だったのでロクに覚えておりませんでしたし。 まあ歴史の先生に対する悪口はその辺にしておきまして、本日は誰もが知っている日本史上の一大事件に関するお話です。 本能寺で信長業火に散る! 天正十年(1582年)6月2日、本能寺の変で織田信長が自害しました。 明智光秀に殺された、といっている本もありますが、信長と光秀が一騎打ちをしたわけで
昭和十年(1935年)3月8日、渋谷の銅像で知られる「忠犬ハチ公」が亡くなりました。 昨今、秋田犬と言えばスケートのザギトワ選手とマサルのコンビが代表格ですが、一定の年齢層以上の方にはハチ公の方がお馴染みですよね。 よく混同されがちな柴犬とは違って体格がシッカリしていて、後ほど掲載する最期の写真を見てもかなり大きな犬だったことがわかります。 彼の忠犬ぶりについては知っている方も多いでしょうけど、あらためてお読みいただければ幸いです。 米俵に入れられて 秋田から東京まで20時間ハチは大正十二年(1923年)11月10日、秋田県で生まれました。 ちょうど同時期、東京帝国大学(現在の東大)農学部の教授・上野英三郎という人物が 「秋田犬を飼いたいんだが、誰かアテはないか?」 と探しており、白羽の矢が当たったハチは年明け早々、秋田から東京へ20時間もの旅をすることになります。 米俵に入れられてたそう
織田信長というと苛烈もしくは改革者としてのイメージが強いです。 しかし、意外にも「女性を重視していたのではないか?」という研究者もいます。 妹・お市の方だけでなく、悲運の美女・おつやの方など、彼の周辺には名前がはっきりわかっている女性が多いからです。 他の大名であれば奥さんがいても「誰それの女(と書いて“むすめ”と読む)」としか記録されていないことも多いのですが、信長の場合、側室や養女の名前はもちろん、その出自や嫁ぎ先まできっちり記録されているケースは珍しくありません。 しかし、信長に最も近しかったはずの女性については、ただ一つの例外ともいえる扱いになっており、数々の謎を生んでいたりもします。 それが正妻・帰蝶(濃姫)です。 美濃から来た姫=濃姫と呼ばれていることの多い帰蝶ですが、その実像は意外なほど謎に包まれています。 ※以下はお市の方・おつやの方の関連記事となります
原産地は古代エジプト 女神もいる猫の原産地はエジプト周辺といわれています。 ただし、現在見つかっている最古の飼育例らしきものはギリシャ・キプロス島。9,500年ほど前、要人と思しき立派な墓の中で、猫の骨が見つかったのです。 生贄なら家畜、死後のお供なら人間でしょうから、恐らくは「可愛がっていた猫を一緒に埋めてあげたんだろう」ということになっています。 そのとき猫は生きていたのか? 殺して無理やりお供をさせたのか? あるいは猫が死んだ悲しみのあまり、主が自害して一緒に埋葬されたのか? チョット気になるところですが、そこまでは研究されていないようです。 一方、原産地の古代エジプトでは【バステト】という猫の顔をした女神がいます。 犬と同様に珍重されていたのでしょう。 楯に猫の絵を描いて敵を追い払ったこともあるとか。ネコミミ・猫しっぽに萌えていたわけではないでしょう。多分。 所変わって中国やヨーロ
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