「全体最適」という概念があります。 個々の構成員にとってではなく「組織や社会全体にとって最も価値が高くなる方法」を選ぶ考え方です。 最近よく聞くようになった「トリアージ」 大災害や大事故が起こり、治療を要する人が大量に発生して医療キャパシティがたりない時、専門の医師が治療の優先順位を考える手法のことです。 優先して治療を受けるべしとされるのは「より重症の人」ではなく、「治療する意味のある人」なので、その時点で「手を尽くしても既に治療の甲斐がない」と判断されると優先順位が低くなります。 こうすることにより、救える命の数が「全体として最大化」できるわけですね。 もうひとつの例は、倒産しそうになった企業を国が税金で支援すべきかどうかという議論です。 銀行や日本航空には国の支援が入りましたが、普通の民間企業が倒産しそうになっても税金での支援などありえません。 ここでも「特定の企業に関しては、税金で
結論から言いますと、「日本では、考える機会がないから、考える技能が身につかない。」という単純なことかと思います。ただ、そのような機会がなぜないのか?については、日本の文化的なことか、教育か?という点は、考える必要があるかと。 以下のブログよりトラックバックを頂いたので 議論ができないと考える能力が低いのか? (Keynotes) 最初に思い浮かぶのは「議論ができない」から、それが考える能力の低さにつながるだろうかという疑問だ。 誤読させてしまって申し訳ありません。 僕の言っていたことは、「議論を避ける傾向のある社会では、議論するという考える機会が少ないために、考える技能が低いのではないか?」という仮説です。 日本人はそこそこノーベル賞も獲得しているし、特許の獲得件数も多い。アメリカでの特許登録の半分は日本の会社だそうだ。なので、日本人の考える能力が低いわけではなさそうだ。 一応ですが、
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く