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ブックマーク / ameblo.jp/sirigon (6)

  • 『イエス・キリストの死の記念式にあたって』

    バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4 4月14日 イエス・キリストの死の記念式の日。 さて、今日はいよいよ日没から私 たちの主、イエス・キリストの死の記念式が執り行われるべきニサンの十四日とな ります。 私どもにとってはJWの会衆から離脱して以来、姉と二人だけで行う初め ての記念式でもあり、記念すべき記念式ともなりました。 相変わらず離脱以降も 野獣と姦婦たちからの陰険な攻撃は止むこともなく続いておりますが、かえってそ れにより、自分たちの召しについて一層の確信を持ててもいます。 イエスはこの式を始められる前にルカ 22:15,16 でこう言われました。 「私は、 苦しみを受ける前にあなた方と一緒にこの過ぎ越しの事をすることを大いに望 んできました。

    pyubible
    pyubible 2014/04/14
    素通りするのは、どう考えてもおかしい。
  • 『死に関しての神の法的認定要素を考察する。』

    今日は昨日の続きで、マタイ 1:18 のイエスの命が天から地上に移されたという出来事に関連し たところから始めたいと思います。 当然のことながらこの移動に際してもイエスの命は途切れること はありませんでした。 それに対してイエスは死んだ際、足掛け三日墓の中に居ました。 実はここに 「何をもって人の死とするか?」 という人の死に関する神の法的認定のための要素が係わっていま す。 イエスは地上における三年半の奉仕期間に幾度か死人を復活させましたが、一つの例を除い て、それは復活というよりはむしろ蘇生に近いものでした。 一方、ラザロを復活させたときは死後四 日も経っており、こちらはまさに新しい世における復活のような、再創造に近いものでした。 イエスは わざわざそれを示したかったのです。 ラザロの遺体は既に腐敗し始めていたからです。 ここからある人々の言う聖句の解釈に疑問が生じます。 その聖句は、

  • 『神の選びに影響を及ぼしたタマルの信仰』

    バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4 今日は、系図の中から前後しましたが、マタイ 1:3 のタマルに注目してみたいと思います。 そもそも創世記38章にあるこの異常な出来事の始まりは、ユダが自分たちの親族からではなく 安易に、また手っ取り早くカナン人の女をとしてめとったところから始まっています。 それはしては いけないことでした(創世記28:1)。 とはいえ、その頃はまだふさわしい結婚相手が極めて少なか ったことでしょう。 というよりは身近には皆無だったのかもしれません。 実際ヤコブの子らで記され ている女性は妹のディナだけでした。 ユダの父ヤコブもその父イサクも自分の結婚に関して、できる だけ真の崇拝者の親族から得ようと努力したのです。 ユダはこの点

  • 『娼婦ラハブの信仰の基盤は?』

    バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4 前書き できるだけ毎日聖書から霊的物が得られるようにするため、日より 「今日この日のためのパン」 と題して新たに記事を更新してゆきたいと思います。 自分自身のためにも、そしてこれを見てくださ っている人たちにとっても、何かの益になりますように。 また、私自身も生身の人間なので、何らか の体調不良や予期せぬ出来事のために更新が滞ることもあるかもしれませんが、その点につきまし ては予めご了承ください。 またこれ以外にも何かの話題のネタがありましたらその都度記事にして ゆきたいと思います。 とりあえずマタイの福音書から始めたいと思います。 マタイ 1:1~ 聖書に出てくる系図の表記は、特別の場合を除きほとんどが男子の

  • 『マタイ 7:12 黄金律の意味するところ』

    バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4 マタイ 7:12 の、「それゆえ、自分にしてほしいと思う事はみな、同じように人にもしなければなり ません。 事実、これが律法と預言者たちの意味するところです」 この聖句は、その後半部分にある 通り聖書全巻の神髄であることが解ります。 その前から続く 7~11節で、弟子たちが聖霊を神に 祈り求める際、人間の親を 「邪悪な者でありながら」 と引き合いに出して、彼らでさえ自分の子供 のためを思い最良の物を備えるのであれば、まして神はどれほど完全な贈り物を備えてくださるのか という話の直後に、「それゆえ・・・・」 と始まっている部分なので、「自分にしてほしいと思うことを他 の人にする」 とは、親心で我が子に接するレベル以上

  • 『創世記4:26「エホバの名を呼び求める」とは冒涜的?』

    創世記 4:26 には、「その時エホバの名を呼び求めることが始まった」 とありますが、これは今日 の日でいうところの 「苦しい時の神頼み」 という格言的な意味での崇拝行為の一形態です。 それは心に律法が書き記されていなかった時代の特徴としてヘブライ語聖書の随所に見られます。 イエス以降の油注がれたクリスチャンは心に律法が書き記されていたので、こうした祈り方はギリシ ャ語聖書にはほとんど出てきません。 したがって人類のごく初期に始まったこうした祈りは、今日、 神からの恵みがないあらゆる国民に普通に見られる行為の一つにすぎません。 無神論者でさえ 当に苦しい時には神にすがるとも言われます。 つまり普段は神を無視しているが、苦しくなると、 わらにもすがりたい気持ちで神を拝むということです。 物見の塔解釈ではこの部分を 「冒涜的に呼ばわること」 としていますが、むしろこうした傾向は、始 まりの

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