今年の新作アイテム。アルミ製のメタルパネルです。とても発色が良く、お気に入りなのですが、リビングの壁がエイトグッズだらけになってしまいました。 ランキング参加中ペット ランキング参加中雑談
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其の四十一 美しき日本語の世界。 美しき日本語の世界。 ことわざとは 本当にあるの?これまでの人生で一度も遣ったことがない変わったことわざ 開いた口へ牡丹餅 開けて悔しき玉手箱 磯の鮑の片思い 芋の煮えたも御存じない 瓜に爪あり爪に爪なし 内で掃除せぬ馬は外で毛を振る 鬼も十八番茶も出花 ことばの業 ことわざとは ことわざ(諺、英語::proverb、ラテン語:proverbium)とは、民間説話の下位概念であり、「人口に膾炙された」言句をいい、鋭い風刺や教訓・知識などを含んだ、世代から世代へと言い伝えられてきた簡潔な言葉のことである。 俚諺(りげん)ともいう。 「故事・成句」などと関連する。 ことわざは、観察と経験そして知識の共有によって、長い時間をかけて形成されたものである。 その多くは簡潔で覚えやすく、言い得て妙であり、ある一面の真実を鋭く言い当てている。 そのため、詳細な説明の代わ
其の四十 美しき日本語の世界。 美しき日本語の世界。 言葉は濁ると悪くなる 言葉は濁ると悪くなる 言葉は濁ると聞こえも意味も悪くなる。 意志 → 意地 報恩 → 忘恩 本能 → 煩悩 口 → 愚痴 戒 → 害 謝 → 邪 徳 → 毒 法 → 暴 ほらね。 濁ると良くない。 人も同じような気がする。 扱う言葉が、その人自身を映し出している。 ことば遊び悦覧記 ☆今すぐApp Storeでダウンロード⤵︎ Yomiwa JP Dictionary(多言語辞書) Nomad AI OU辞書/辞典/その他無料 nemo 日本語 Nemo Apps LLC教育無料 言葉で育成!ことだま日記 Polaris-xゲーム無料 ランキング参加中社会 ランキング参加中政治
1月10 フィリピン人と結婚した結果・・・フィリピン人妻との非日常的日常!年末年始は下呂温泉!会員制リゾート体験宿泊キャンペーンに行って来た!其の四 カテゴリ:お出かけ日誌 草葉の陰からジッとこっちを見ている鬼嫁にビビるpopeどすえ! どうも!ただいま腰とココロとブログ絶賛リハビリ中のアンポンタン親爺! 今日も今日とて家でも職場でもフィリピン人に弄られておりますww 眠れない夜を過ごし、ボォーッとした頭で朝を迎えたアンポンタン!嫁の白川郷に行きたい!というのをナダメすかしてすぐ近くにある下呂温泉合掌村!へとチェックアウト後に行くことに。 おーーっとその前に昨日説明を受けた会員制リゾートへの勧誘お断り!をしなければ・・・ などと一風呂浴びて考えておるうちに朝食が運び込まれて来ました。 昨夜の人とは違う、うら若き女性スタッフがテーブルに並べてくれたのが・・・ こちらの純和風朝食!さすがに嫁も
其の四 美しき日本語の世界。 美しき日本語の世界。 漢字の持つ美しさ 漢字とは 単独でも熟語でも美しい漢字の世界 漢字の持つ美しさ 漢字とは 漢字は、中国古代の黄河文明で発祥した表記文字であり、四大文明で使用された古代文字のうち、現用される唯一の文字体系である。 また最も文字数が多い文字体系であり、その数は約10万字に上る。 古代から周辺諸国家や地域に伝わり漢字文化圏を形成し、言語のみならず文化上に大きな影響を与えた。 現代では中国語、日本語、朝鮮語(韓国語)、広西の東興市にいるジン族が使用するベトナム語の記述に使われる。 現在、朝鮮語ではほとんど使用されなくなっている。 20世紀に入り、漢字文化圏内でも中国語と日本語以外は漢字表記をほとんど廃止したが、なお約15億人が使用し、約50億人が使うラテン文字についで、世界で2番目に使用者数が多い文字体系である。 単独でも熟語でも美しい漢字の世界
其の四十二 美しき日本語の世界。 美しき日本語の世界。 実は大切な言葉を省略している日本語 実は大切な言葉を省略している日本語 別れる時の挨拶である「さようなら」。 実は大切な言葉を省略している日本語のひとつだということをご存知だろうか。 現在では「さようなら=別れの言葉」として認識されているが、そもそも「さようなら」という言葉自体に別れの意味はない。 元になっている言葉は「然(さ)あらば」という古語。 これは「さやう(さよう)ならば」と同義で、「そうであるならば」という意味で用いられていた。 この「さやうならば」は、武士の挨拶として遣われており、正しくは 「さやうならば、御暇仕らん(さようならば、おいとま つかまつらん)」 と遣われていた。 これは「それならば、帰りましょう」という意味だが、正確に訳すと「それならば(あなたにやむを得ない用事があるならば)私は帰らせていただきましょう」とな
本日は久しぶりに週末の快晴。 嫁に許可を得て、タイヤQD(クイックドライブ)モンスタービートルのレストア作業の続き、塗装を行った。 まずは前回までのサフ状態。(白サフ) 上からレーシングホワイト。 少し黄色味を帯びた。 結構良い色だ(ニヤリ) 続いて、ブライトオレンジで後ろ部分にグラデーション塗装。 モンスタービートルの元の赤のようだ。 乾燥後に組付け。 ステッカーなどがないため、フロントがのっぺりとして見える。 うーん、思っていた感じと違う。 ステッカーを貼ったら良くなるのだろうか? モンスタービートルをカッコ悪くできる才能というのもある意味凄いのかも知れない。 あとはステッカーを貼って、つや消しで仕上げたらなんとかなって欲しい。(神頼み) それっぽいステッカーを探さなくてはイケナイ。 塗装の乾燥中に梅雨で刈れなかった芝生のメンテナンスを行った。 伸び放題だ。 梅雨入り前に雑草取りを行っ
2年3カ月ぶりの『虎番疾風録』の再開である。筆者にはこの第4弾で描きたい人物がいた。小林繁である。 昭和54年、あの「江川騒動」で巨人から阪神にやってきた小林は巨人に無傷の8連勝。シーズン22勝を挙げ最多勝や最優秀投手賞、ベストナイン、沢村賞に輝いた。その年、サンケイスポーツに入社したばかりの1年生記者には眩しすぎるほどの輝きだった。 入社2年目、正式に〝虎番〟になった筆者はこんな質問をした。 「やっぱり、巨人を恨んでるの?」 すると小林は驚いたような顔でこう答えた。 「どうしてオレが巨人を恨まなきゃいけないんだ。6年間もオレを育ててくれたチームだぞ。自分の運命は恨んでも巨人には感謝しかないよ」 「感謝? コバさんをトレードに出したのに?」 「ああ感謝している。一流の選手には努力すれば誰でもなれる。でも、超一流の選手になるには〝運〟が必要なんだ。長嶋監督はボクにその〝運〟をくれた。あのまま
本日は朝から買出しに出かけた。 ど田舎に住んでいるため、買い物はまとめてしなくてはイケナイ。 息子達が食べ盛りになったら、業務用冷凍庫を買おうかと、嫁と真剣に話をする程だ。 買い出しでBBQ用に炭を購入。 基本はDIYで出た桧の端材を燃やすつもりだが、念のために調達しておいた。 そして、帰宅後に昨日完成したローテーブルに蜜蝋を塗ってみた。 写真では分からないが、色味が深くなりツヤが出た。 使用したのは木工美肌。 以前に製作した作業台にも使ったのだが、手触りが物凄く良くなる。 抗菌、撥水、艶出しが出来るため愛用している。 柿渋塗装もしたかったが、時間が取れそうになかったので今回は断念。 次に制作するときは柿渋塗装を行いたい。 来週の日曜日、天気さえ良ければ庭BBQ決定だ。
小林の実家は鳥取県東伯郡赤碕町(現琴浦町)にある。筆者は小林の両親(父・進、母・悦子)と面識があった。運よく進さんが出た。 「まだ、そういう連絡は入っていませんね」という。少しがっかりした。すると「ただ、思い当たる節はあります」と、進さんは静かに話し始めた。 「2、3年前からあの子は〝ボロボロになるまで投げるよりも、惜しまれて辞めたい〟と引き際を考えていたようです」 ――今年(昭和58年)になってそんな話はしましたか 「ええ、春先に一度。そのとき私が〝今年辞めたら〟というと〝まだ、そういう気持ちにならんよ〟といってました。もしかしたら、気持ちに変化があったんじゃないでしょうか」 ――というと 「ことし10勝の壁は越えたけれど、あの子自身、力の限界を感じているようです。17日の広島戦で先発しなかったので、何かあるんじゃないかと感じていました。中5日も開いているのに、中2日の工藤さんが出てくる
本日は休みだが、比較的近いエリアでコロナウイルス感染のニュースが流れていたため、ど田舎の近場の公園で家族で遊んだ。 普段隔離されているようなど田舎なため、こういう時は困らない。 帰宅後のお早寝タイムに少しだけ楽しい工作シリーズ仕様クローラーを進めた。 ボディは大事なコレクションからワイルドウイリスJr.をチョイス。 カッコいい(*´Д`*) まだシャーシは出来ていないが、それっぽく置いてみた。 これが走り出したら鼻血を出してしまいそうだ。 ちなみに公園ではタミヤQDのホライゾンを走らせてきた。 軽快に走って楽しいマシンだ。 北風が強く寒すぎたため、嫁が水筒に温かいココアを入れてきてくれた。 ありがたい。 寒い中家族と遊びながら飲むココアは格別の味がした。 本日の筋トレ腕立て伏せ15回 アブローラー立ちコロ5回 腕に効いていて回数が減ってしまった。 これが明けたら成長しているハズだ。 明日は
昭和49年、巨人のV10を阻止したのは中日だ。エース・星野仙一、投手コーチ・近藤貞雄そして監督・与那嶺要―3人の強烈な「打倒巨人」への思いが、20年ぶりの優勝へと結びついたのである。 星野の「打倒巨人」は有名である。43年のドラフト、巨人から1位指名されると信じていた星野は、巨人の「島野修」指名に「星と島を間違ったんじゃないのか」という名言を残した。 星野は巨人のスカウト(明大OB)から「ウチは1位で田淵を指名するが、田淵が先に取られたらお前を指名する。そのときは頼むぞ」と言われていた。 「信じ込んでいたから悔しかった。これがプロの世界か―と歯ぎしりする思いだった。49年は巨人戦以外は力を抜いて遊んで投げていたよ」 49年、星野は先発、リリーフにと投げまくり15勝9敗10S。「最多セーブ」と「沢村賞」に輝いた。特に巨人戦には半分の14試合に登板(先発5、救援9)して3勝3敗4S。「ローテー
『小林死す』―の悲報は、江川の耳にも届いた。2010年1月17日、東京都内で緊急会見が始まった。 「突然だったので驚きました。小林さんが亡くなっても、申し訳ない気持ちは一生、持ち続けると思います」 江川はずっと小林に謝りたい―と思っていた。その思いが07年に実現した。酒造会社「黄桜」のCMで共演し『空白の一日から28年―』というタイトルで対談。初めて小林に「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げたのである。 「小林さんから『お互いに大変だったなぁ』という言葉をいただいたとき、すごくホッとしたのを覚えています。撮影が終わると『元気でやれよ』と声を掛けられて…。それが最後の小林さんの言葉です」 巨人入団3年目の1981(昭和56)年、江川は都内のステーキハウスでばったり小林に出会った。向こうのテーブルまで「おわびに行こう」と席を立ったとき、それに気づいた小林がうなずいて手で制した。 「もう分かった
金田監督の辞意表明で追い詰められた阪神の戸沢球団社長。やはり〝二者択一〟しか道はないのだろうか。 虎番記者たちは連日、深夜遅くまで監督や江夏、社長宅を張り込んだ。そんなある日、突然、江夏の表情が変わった。 12月12日、甲子園球場近くの自宅で記者たちに囲まれた江夏は、実に穏やかな表情になっていたという。 「ある人にずいぶん説教されたんや。監督に謝りに行くことを約束した」 記者たちは驚いた。つい先日まで目をつり上げて「あんな監督の下で野球はできん!」と息巻いていたのに…。江夏に何が起こったのか。 12月6日、江夏は後援者の重鎮T氏から「野球はチームプレー。お前の気持ちもわかるが、ここはグッと我慢して謝りなさい」と言われたという。 T氏は当時、奈良県内で5つの会社を経営する実業家。野田忠二郎社長をはじめ阪神電鉄本社の上層部とも親交があり、「虎信会」という後援会を作って選手たちを支援。江夏も「オ
昭和48年12月、阪神にまたしても〝お家騒動〟が勃発した。シーズン中から燻(くすぶ)っていた江夏と金田監督の〝確執〟に火がついたのである。46年には「村山VS江夏」、47年には「村山VS金田」。毎年のようにチーム内の不和が表面化した。 江夏と金田監督はもともと「ゆたか」「おじき」と呼び合うほど仲が良かった。48年の正月には2人で福井県の永平寺(曹洞宗大本山)へ参禅にでかけたほどだ。 そんな2人が〝不仲〟になったのは、5月9日の巨人4回戦(甲子園)で江夏が六回途中7安打6失点でKOされたのを金田監督がミーティングで批判。江夏はそのミーティングに出席しておらず〝欠席裁判〟のようになった。その様子を某コーチが江夏に〝ご注進〟したのがきっかけ―といわれている。 「金田監督が江夏の甘えを黙認している間はよいが、そのうち他のナインの突き上げが起こる。こうなると監督も江夏を他と同じように厳しく当たらざる
小林繁の生い立ちを少し振り返ってみよう。昭和27年11月14日、鳥取県東伯郡赤碕町(現在の琴浦町)に生まれる。父・進さんは旧電電公社に勤める公務員。野球を始めたのは小学生のころ。父が買ってくれたグラブ。最初、どちらの手にはめればいいのか分からなかった―という。 学校から帰ってくると毎日のように父と兄がキャッチボールの相手を務めてくれた。ソフトボールに三角ベース。小林少年は砂浜を駆け回った。投手になったのは赤碕中のとき。当時の小林は身長170センチ、体重は50キロそこそこ。ヒョロ長の痩せっぽちだった。 「あの頃のボクの野球はひと言でいえば〝こすっからい〟野球。どうすれば弱者が強者を倒せるか、どうやって相手のスキを突くか。こんな手もあるんじゃないか、あんな手も…と考えることが面白かった」 赤碕中から県立由良育英高に進むと、2年生のときに監督から「三塁手転向」を命じられた。小林は拒否した。 「投
昭和49年シーズン、巨人は前半戦、苦戦が続いた。前年23勝の左のエース高橋一が開幕から9連敗。同じく前年、阪神との〝二番勝負〟で右手薬指を骨折した長嶋が負傷の影響で極度の不振。打率2割3分台で「3番」を外れ「1番」を打った。首位は阪神、2位中日。5ゲーム以上の差をつけられて巨人。 そんなある日「事件」が起こった。 ◇7月9日 川崎球場 巨人 010 002 000 0=3 大洋 000 300 000 0=3 (巨)関本―小川 (洋)平松 (本)王⑳(平松) 二回、巨人は1点を先制しなお1死二塁のチャンスを迎えた。打者・河埜の初球、大洋の先発・平松の投球は内角高めへのけ反るようなボール。河埜はバットを引いたが避け切れず左ひじに当てて顔をしかめた。ところが平光球審の判定は「ファウル」。ボールはバットのグリップエンドにも当たり「コン」という音がしていたのだ。 一塁へ歩きかけていた河埜が「そんな
来日したジョンソンにはなぜか「メジャーの四番打者」という形容詞が付けられていた。昭和46年、日米野球で来日したときも「7番二塁」が定位置。たしかに1973年、ブレーブスで43ホーマーを放ったときには「4番」も打ったが「四番打者」ではなかった。 長嶋監督は昭和50年4月22日の中日戦で早速、ジョンソンを「代打」で起用した。 ◇4月22日 中日球場 巨人 112 000 011=6 中日 030 102 000=6 (巨)関本―小川―倉田―小林 (中)三沢―稲葉―竹田―星野仙 4―4の同点で迎えた六回2死一、二塁。ここ一番の勝負どころだ。中日もマウンドに星野仙を送った。 1球目=外角へのスライダー(ストライク)。2球目=フォークボールが低めに落ちる(ボール)。3球目=外角へフォークボール(ストライク)。4球目=外角へのスライダー(ストライク)。 一度もバットを振らず三振に倒れた。長嶋監督は「や
ルーキー小林にとって初めての優勝は「信じられない光景」の連続だったという。昭和48年10月22日、兵庫県芦屋市の選手宿舎「竹園旅館」を出発する際、マネジャーからこんな通達が出された。 「勝っても球場では胴上げはしない。1秒でも早く宿舎へ帰るんだ」 1秒でも早くとは大げさな―と多くの選手たちは思った。だが、それは事実だった。試合終了と同時に約3000人のファンがグラウンドになだれ込んだ。左翼ラッキーゾーンにいた小林たちには「頭の上からファンが降ってくる」ように思えたという。 暴徒と化した阪神ファンが目指したのは巨人ベンチ。守っていた野手たちは一目散にベンチ奥へと駆け込んだ。 「走れ! 早く!」とベンチ前で声を張り上げ、選手たちが全員戻ってくるのを待っていた牧野ヘッドコーチと王が逃げ遅れて虎ファンに捕まった。幸い1、2発殴られただけでケガはなかった。 「竹園旅館」に帰り着いた巨人ナインは2階大
みなさんこんにちは!「れおっち」です(-ω-)/ 少し間が空いてしまいましたが、 「よみうりランドデート」編が終わったので 「旅」のお話に戻ります。 shizhonglingyang.hatenablog.com ↓ 前回までのお話(まだ読んでないよって人、忘れたよって人、この記事もっと楽しん で読みたいよって人はぜひ!) shizhonglingyang.hatenablog.com shizhonglingyang.hatenablog.com shizhonglingyang.hatenablog.com それでは最後まで楽しんでいって下さいな♪ ーーーーーはじまり、はじまりーーーーー 二日目はなんとか目的地である「四国」へと上陸することに成功した。 香川県ではうどんを食べ、 徳島県ではぐっすりと寝た。 #すがすがしいくらいの「食っちゃ寝」 三日目の朝。 今のところ、本当に食べて、電
巨人に7点リードを逆転され、ベンチで呆然とする阪神の江夏(手前)と上田(奥)=昭和48年10月、後楽園球場 さて、『後楽園二番勝負』に話を戻そう。昭和48年10月11日、前日の勝利で勝率5割2分9厘と1厘差で首位に立った阪神は江夏が先発。巨人は堀内がマウンドに上がった。 筆者には忘れられない試合となった。当時、高校3年生。教室の後ろの黒板にスコアボードを作り、授業中、隠し持ったラジオで野球中継を聞いて得点を書き込んだ。一回、堀内をKOして4点。二回は野田、遠井、田淵の3連打などで3点。そのたびに教室には歓声が起こった。先生は黙っていた。阪神ファンだったのだ。勝ったと思った。それが…。 ◇10月11日 後楽園球場 阪神 430 000 210=10 巨人 000 405 010=10 神=江夏―古沢―上田―権藤―谷村 巨=堀内―玉井―関本―倉田―高橋善―小林 (本)富田③(江夏)黒江⑦(古沢
『小林引退』の記事が出たその日(昭和58年10月19日)、球団は騒然となった。ヤクルト戦(神宮)が雨天中止となり、虎番記者たちは神宮室内での練習を終えた小林を取り囲んだ。 筆者もそこにいた。小林は不機嫌そうな顔をして視線も合わせてくれない。他社の記者から質問が飛んだ。 ――お父さん(進さん)と「引退」について話し合ったんだって 「ああ、2年ぐらい前にね。あのときはまだ引退なんて考えてなかった。ただ〝その時がきたらすっぱりと辞めるよ〟とは言ってある」 ――力の限界を感じているのか 「感じているよ。全盛期に比べたら力の衰えをね」 ――自叙伝を出版するのか 「うん、準備している。でも、辞めてから出すつもりはない。現役の間に出したいと思っている」 ――来季はどうするのか 「〝来季もやります〟と書いとけば。だって、オレより勝っているピッチャーはウチにはいないんだもん」 抜かれたら否定したい。新聞社の
昭和48年も押し詰まった12月28日、江夏VS金田監督の『確執騒動』がようやく終結した。 25日に江夏から「謝りたい」の言質を取った阪神・戸沢球団社長が26、28日と金田監督と会談。「水に流します」と言わせたのだ。なかなかの執念である。 「いろいろ曲折はあったが、留任が決まりました。これを教訓とし今後は二度とゴタゴタを起こさないよう努力します」と戸沢社長は安堵(あんど)の表情を浮かべた。社長はただ「辞めないでくれ」と頭を下げたわけではない。26日の会談で金田監督から提案された〝3つの要求〟をすべてのんでの慰留だった。 ①組織を優先させ、個人の放任は許さない ②チームの機密を漏らす者の処分を強化する ③球団フロントは毅然(きぜん)とした姿勢でチーム作りに臨む 監督から球団へ出された要望としては前代未聞の内容である。 会見に臨んだ金田監督の表情は晴れてはいなかった。それは、言いたい放題に監督を
優勝マジックを「1」とした古葉広島は10月15日、運命の巨人戦を迎えた。後楽園球場のスタンドは「赤ヘル」に埋め尽くされ、三塁側ベンチの上では広島からやってきた応援団長らが正座し、王の打席を迎えるごとに声を張り上げた。 「王さ~ん、今日だけは打たんでつかぁさい。あしたからはなんぼ打ってもええけぇ」 ◇10月15日 後楽園球場 広島 000 010 003=4 巨人 000 000 000=0 (勝)外木場20勝13敗 〔敗〕新浦2勝11敗 (本)ホプキンス(32)(高橋一) 午後5時18分、ついにその瞬間を迎えた。グラウンドに数千人のファンが殺到。古葉監督を胴上げ。担ぎ上げてグラウンドを練り歩いた。 「この優勝は私たちだけのものではありません。これまで球団に関わったすべての人たちのものです」 古葉監督が喜びの声を張り上げた。 昭和24年、原爆で打ちひしがれた県民に希望の光を与えようと地元有力
「いまさら勉強し直して大学なんて…。でも就職、どうしよう」 昭和45年、夏の大会を終えた小林は自分の進路について悩み始めていた。そんなとき、由良育英高と関係のあった関西大学野球部の木嶋一黄主将から「ウチのセレクションを受けてみないか」と声がかかった。 45年の関大は後に阪急ブレーブスに入団し〝剛速球投手〟として名を馳せた山口高志が2年生エースとして君臨。関西六大学で春秋のリーグ戦連続優勝。6月に行われた「第19回全日本大学野球選手権大会」の準決勝では、法大との大学野球史に残る名試合を演じていた。 当時、法大は〝プロ予備軍〟といわれるほど好選手が揃っていた。打者では長崎慶一(大洋―阪神)、山本功児(巨人―ロッテ)。投手では横山晴久(東映)。試合は1点を争う大熱戦となり、なんと延長二十回に及んだ。横山―池田信夫(のち大昭和製紙)と継投策に出た法大に対し関大は山口一人で二十回を投げ切り、見事3―
昭和58年10月22日、甲子園球場でのシーズン最終戦(中日戦)。小林は先発・工藤―福間―山本とつないだ4番手として九回のマウンドに上がった。 公式的にはまだ「引退」を表明していない。だが、縦じまのユニホームに身を包んだ小林の、背番号「19」の現役最後の〝雄姿〟を見ようと、スタンドには2万7000人の大観衆が詰めかけた。 ◇10月22日 甲子園球場 中日 001 001 010=3 阪神 200 200 22×=8 (勝)工藤13勝10敗1S 〔敗〕都 6勝9敗5S (本)北村⑨(都)大島(36)(工藤)バース(35)(桑田)尾上②(山本) 入念にマウンドを整える小林。笑みはない。いつもより深く帽子をかぶっている。いきなり、先頭の上川を四球で歩かせた。〈やっぱり平常心で投げられへんのや〉と心配になった。 平野を遊ゴロ。大島にはストレートで2―1と追い込み、内角低めへのカーブで見逃し三振。続く
昭和49年、火種を残したまま3年目のシーズンに入った金田阪神は、どんな戦いをみせたのだろう。 最終的には57勝64敗9分けの4位。やっぱりなぁ…の感あり。だが、前半戦は阪神ファンを狂喜乱舞させた。6月3日に首位に立ち、27日には最大貯金「13」を記録。一時は巨人に6ゲーム差をつけた。凋落(ちょうらく)のきっかけは8月の〝死のロード〟。2試合目に不運が襲った。 8月7日、川崎球場での大洋戦で一回、藤田平が大洋の先発・間柴から右ひじに死球を受けた。五回までプレーを続けたが「ボールが投げられない」と訴えて交代。骨には異常がなかったものの「打撲」で全治3週間と診断された。 「3番・遊撃」藤田の欠場で一気に攻撃力と守備力が低下。投打のバランスも崩壊。川崎―静岡―西京極―広島―中日―岡山―後楽園と続いた長期ロード15試合を3勝11敗1分け。8月18日、76日間守ってきた「首位の座」を巨人に奪われた。
入団2年目の昭和49年、小林は開幕から1軍に定着し8勝5敗2S、防御率2・42の好成績をあげた。 G番記者たちからは〝堀内の後継者〟とみられていた。当時、巨人の担当だった東京スポーツの中村康博先輩はこう回想した。 「身体が細くてなぁ、みんなから〝ヤセ〟とか〝骨〟って呼ばれていたよ。でも、気の強い男で『この体でもノンプロ(全大丸)時代は完投で連投したこともあるんです!』といつも、口をとんがらせて怒っていた」 リリーフで2勝を挙げていた小林に5月26日の広島戦「先発」が命じられた。プロ初先発である。当時、広島は別当薫監督の後を受け森永勝也が監督に就任。Bクラスに苦しんでいた。それでも打線は強烈。この時のスタメンは― ①深沢(右)②上垣内(三)③山本浩(中)④衣笠(一)⑤三村(二)⑥ヒックス(左)⑦水沼(捕)⑧木下(遊)⑨大石(投) ◇5月26日 広島市民球場 巨人 000 201 001=4
「小林って誰や?」「こんな痩せっぽちのルーキーに任せて大丈夫?」 昭和48年10月11日、巨人―阪神の命運をかけた〝二番勝負〟。10―10となった九回のマウンドに立った小林に後楽園球場のスタンドは大いにざわついた。 負ければ巨人のV9は遠のいてしまう。1点もやれない。普通のルーキーなら膝が震えてしまうだろう。だが、小林は「緊張感はなかった」という。 実は試合前、小林は投手コーチから「きょうは2番手で行くから用意しておけ」と告げられていた。ところが、まさかの堀内一回KOで筋書き変更。巨人ベンチは玉井―関本―倉田―高橋善とつぎ込んでいった。その間、小林は「次はオレか」「次はオレだ」と身を乗り出して待った。 「出番が後ろへ、後ろへとまわされていくうちに緊張感も薄れた。というより、だんだん腹が立ってきて、マウンドに上がったときには怒っていたんだ」 10―10の大事な場面での期待の投入―といえば聞こ
「小林がことし引退を考えている」 左方キャップの情報に〈まさか〉と思った。実はこの昭和58年シーズンが始まる前、小林は若い虎番記者たちを前にこう公言していた。 「ことし10勝できなかったらオレは辞めるよ」 といってもその言葉は思いつめたものではなく「このオレが10勝できないわけがないだろう」という強気な心の表現。 この10月18日の時点で小林の成績は13勝14敗1S。負けが上回ってはいるものの「10勝」のノルマはクリアしていた。そんなコバさんが引退? まさか…。だが、一方で〈あり得るかも〉という思いもあった。それは小林の右ひじの状態だった。 巨人時代、2年連続で18勝をマークした51、52年ごろから小林の右ひじは真っすぐに伸びなくなっていたという。腕を鞭(むち)のようにしならせ、体に巻き付くように投げる投球フォームは右ひじに大きな負担がかかった。痛みはない。マッサージを受ければ元に戻り、5
それでも阪神球団は必死に小林を慰留した。昭和58年10月26日、小津球団社長は午後7時から3時間にも及ぶ説得工作。だが、小林の気持ちは固かった。 「もう彼の気持ちを変えさせるのは難しいのかも」 小津社長は話し合いの席で、当時噂に上がっていた2点について確かめたという。 ①キタ新地に出した店に絡む金銭問題 ②巨人時代から交際があったとされる〝危ない人たち〟の存在 小林は「天地神明に誓ってそれが辞める原因ではありません」と明言。「本当にボールが投げられるか、投げられないかの問題なんです」と話したという。 10月29日、ついに球団は小林の「引退」を認めた。午後5時から大阪・梅田の球団事務所で小津社長、安藤監督同席で引退会見が行われた。 「どうもお世話になりました」 深々と頭を下げた小林に一斉にフラッシュが浴びせかけられる。涙はない。 「球団の慰留は大変ありがたいことだと思っています。でも、肉体的
「江夏問題」がまだ決着がつかないというのに、阪神にまたとんでもない「事件」が起こった。 昭和48年11月23日、プロ入り21年目のベテラン左腕・権藤正利投手(当時39歳)が、甲子園球場のロッカールームで金田監督を殴り、ケガをさせる『殴打事件』が起こったのだ。 事の発端はその年の5月のある日、たばこを吸いながら甲子園球場にやってきた権藤は入り口で金田監督と出会った。すると「なんや、サルでもたばこ吸うんかい」と金田監督がからかった。 「監督は軽い冗談のつもりだったかもしれないが、私には侮辱としか受け取れなかった。腹に据えかねた」 その場はジッとこらえて別れた権藤だったが、悔しさは募るばかり。「機会があれば会って、ちゃんと謝ってもらおう」と思った。 11月23日、チャンスが巡ってきた。その日は恒例の『あすなろ野球大会』(運動具メーカーSSKが〝利益の一部をスポーツ振興に〟と大阪・兵庫の福祉施設の
昭和57年シーズンを迎えた。開幕戦は4月3日の大洋戦。この日の試合は一生忘れられない。 ◇開幕戦 4月3日 横浜スタジアム 阪神 001 000 010=2 大洋 000 000 003x=3 (勝)五月女1勝 〔敗〕小林1敗 (本)真弓①(斉藤明) 八回を終わって阪神が2点リード。先発・小林も2安打6奪三振と完璧に大洋打線を抑え、「安藤新監督の初勝利」や小林の阪神での「開幕戦初勝利」も目の前だった。 ところが九回、突如、小林が乱れた。高木豊の投手強襲ヒットと基の遊撃内野安打などで2死一、二塁とされると、田代、ラムにも連打されアッという間に同点。なおも一、三塁のピンチ。 この時点で試合時間は3時間を超え、もう小林に「勝ち」はなくなった。ネット裏の記者席からも小林がガックリ気落ちしているのが分かった。 試合前から雨が霧のように降り続いていた。阪神ベンチは続く高木嘉を「敬遠」の指示。捕手若菜が
昭和58年10月22日の甲子園最終戦では、小林の〝さよなら登板〟のほかに2つの大きな偉業が達成された。一つが真弓の初の「首位打者」が確定したこと。 この日、「5番・二塁手」で出場した真弓は①二塁強襲安打②左前安打③四球④左中間二塁打⑤四球―と3打数3安打。打率を3割5分4厘にまで引き上げた。 この時点で阪神の残り試合は「1」でヤクルト戦。打率2位の若松に打たせはしない。かりに若松が6打数6安打し真弓が5打数ノーヒットに終わっても打率3割5分。若松より2厘上回る。事実上の確定ということだ。 「ことしはツキがあった。若松さんが故障して動けない時期があったし、気分的に楽だった。あとは打率3割5分をキープしたい」 右打者で打率3割5分以上をマークしての首位打者は、36年の巨人・長嶋以来、22年ぶりの快挙。52年のレギュラー定着以降、一度も3割を打っていない真弓にとっては、まさに〝夢の栄冠〟である。
プ巨人戦を前に新幹線で東京に向かう阪神の田淵幸一(左上)上田次郎(左下)金田正泰監督(右から2人目)藤田平(右)=1973年10月 「江夏は出しません」という戸沢宣言でマスコミの放出報道は一応収まった。ところが、一難去ってまた一難。今度は金田正泰監督がそれを不満として12月8日、戸沢球団社長へ電話で「辞意」を伝えたのである。 金田監督はこれまでも「今のままでは他の選手が江夏を受け入れない。球団に適切な処置(トレード)をとってもらわなければ、来季の指揮はとれない」と何度も意向を伝えていた。 あれだけ言ってるのに…。翌9日、兵庫の宝塚ホテルで記者会見に臨んだ金田監督は、どこか吹っ切れたような表情で話し始めた。 ――球団は慰留すると言っているが 「心境が変化することはありません」 ――辞任の理由は 「ゴタゴタの責任は現場の最高責任者の私にある。チーム作りの上で、違う方向(江夏残留)へは行けないの
昭和36年4月8日の巨人との開幕戦で九回、左翼へ決勝ホームランを放ちホームインする中日の与那嶺(左から2人目)=後楽園球場 昭和49年シーズン、ついにこの日を迎えた。優勝マジックを「2」にしていた中日は10月12日、大洋とのダブルヘッダー第1試合を9―2で圧勝。第2試合のマウンドにはエース星野仙が上がった。 ◇10月12日(第2試合)中日球場 大洋 000 001 000=1 中日 010 021 20×=6 (勝)星野仙15勝9敗10S 〔敗〕山下律9勝14敗4S (本)島谷⑪(坂井)井上⑱(坂井) 九回2死、最後の打者は山下大。2球目、星野仙が振りかぶると超満員のスタンドが一瞬、シーンと静まり返った。強烈な打球がライナーで三塁へ。ジャンプした島谷が捕球。球場は大歓声に包まれた。雄たけびを上げ星野仙と木俣がマウンドで抱き合う。スタンドからファンがなだれ込み、選手と一緒になって与那嶺監督の
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