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山名宗全 死因の検索結果1 - 8 件 / 8件

  • The Age of Civil Wars in Japan|軍事板常見問題&良レス回収機構

    c 「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ 戦国時代FAQ <戦史FAQ目次 猫耳武将 目次 ◆総記 ◆国力 ◆宗教ファクター ◆城砦 ◆人物 ◆◆織田家 ◆◆武田家 ◆◆徳川家 ◆◆豊臣家 ◆◆山内家 ◆戦史 ◆◆本能寺の変以降 ◆◆文禄・慶長の役以降 ◆◆関ヶ原以降 ◆◆鎖国令以後 ◆装備 ◆◆火縄銃関連 ◆身分 ◆総記 【link】 【質問】 戦国時代の開始はいつから? 【質問】 歴群の戦国戦史って,評価はどんなもんなんでしょう? 【質問】 日本の戦国時代の軍事制度について,詳しく述べられている本ってありますか? 【質問】 戦国時代後期の日本が世界最強国だったのは本当ですか? 【質問】 日本の戦国時代で裏切りが多いのは,どうしてなんでしょうか? 【質問】 戦国時代ではどういう裏切りが良くて,どういう場合が駄目なのか,基準があるんでしょうか? 【質問

    • 平野明夫編『室町幕府全将軍・管領列伝』 - taronの日記漂流先

      室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書) 作者: 日本史史料研究会,平野明夫出版社/メーカー: 講談社発売日: 2018/11/01メディア: 新書この商品を含むブログを見る いや、とにかくボリュームが大きい。読み切るのにめちゃくちゃ時間がかかった。それだけに、室町時代のパースペクティブを得ることができる本かな。ただ、ボリュームが多すぎて、流し読みでは、いろいろと掴みきれないところが多い。というか、読んでるところでメモ取ってないと、いろいろと忘れるな。 これだけのボリュームの本が新書であるってのが、すごい。 複数の著者が書いている本だけに、例えば直義の死因をめぐって章単位で原因が違うなど、政治的に難しいところで見解の相違が見られる。 こうして、通しで室町時代を見ると、義持時代の安定性が印象に残るな。義満時代までは、京都が戦場になったりしているし。義教、義政の時代はアレだし。その後は、担がれ

        平野明夫編『室町幕府全将軍・管領列伝』 - taronの日記漂流先
      • ☞【クリミア戦争は極東でも行われていた!】『勝海舟と幕末外交』ーイギリス・ロシアの脅威に抗して(上垣外憲一、2014年) 【前編】

        タグ 1070年 東北1221年 日本1268年 できごと1268年 日本1271年 できごと1271年 日本1272年 できごと1272年 日本1274年 できごと1274年 日本1275年 できごと1276年 できごと1276年 日本1277年 できごと1277年 日本1277年 日本史1279年 日本1280年 日本1281年 できごと1281年 日本1282年 できごと1282年 日本1283年 できごと1283年 日本1284年 できごと1284年 日本1285年 できごと1285年 日本1286年 できごと1286年 日本1287年 できごと1287年 日本1288年 できごと1288年 日本1289年 できごと1289年 日本1290年 できごと1290年 日本1291年 できごと1291年 日本1292年 できごと1292年 日本1293年 できごと1293年 日本1294

          ☞【クリミア戦争は極東でも行われていた!】『勝海舟と幕末外交』ーイギリス・ロシアの脅威に抗して(上垣外憲一、2014年) 【前編】
        • ☞【戦略なき人事が国を滅ぼす】『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』(2011年、NHK出版)陸軍篇①

          タグ 1070年 東北1221年 日本1268年 できごと1268年 日本1271年 できごと1271年 日本1272年 できごと1272年 日本1274年 できごと1274年 日本1275年 できごと1276年 できごと1276年 日本1277年 できごと1277年 日本1277年 日本史1279年 日本1280年 日本1281年 できごと1281年 日本1282年 できごと1282年 日本1283年 できごと1283年 日本1284年 できごと1284年 日本1285年 できごと1285年 日本1286年 できごと1286年 日本1287年 できごと1287年 日本1288年 できごと1288年 日本1289年 できごと1289年 日本1290年 できごと1290年 日本1291年 できごと1291年 日本1292年 できごと1292年 日本1293年 できごと1293年 日本1294

            ☞【戦略なき人事が国を滅ぼす】『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』(2011年、NHK出版)陸軍篇①
          • 大内義隆は全盛期と滅亡を味わった

            宮下悠史 YouTubeでれーしチャンネル(登録者数5万人)を運営しています。 日本史や世界史を問わず、歴史好きです。 歴史には様々な説や人物がいますが、全て網羅したサイトを運営したいと考えております。詳細な運営者情報、KOEI情報、参考文献などはこちらを見る様にしてください。 運営者の詳細 大内義隆という人物を評価するのは、非常に難しい所があります。 治世の前半で言えば文武両道の名君に感じますし、治世の後半になると政治を疎かにした暗君に見えるからです。 ちなみに、大内義隆は祖父は、応仁の乱で活躍した大内政弘です。 山名宗全や畠山義就ら西軍は、細川勝元ら東軍に押され気味で苦戦していたのですが、大内政弘が大軍を率いて上洛すると、形勢を立て直しています。 この様に祖父の代から既に、大内家は強国となっていました。 尚、大内家をさらに発展させて、滅亡に導いたのが大内義隆です。 大内義隆の一代で全盛

            • ☞【1861年、対馬はなぜ占領され、なぜ回復したか?】『勝海舟と幕末外交』ーイギリス・ロシアの脅威に抗して(上垣外憲一、2014年、中公新書)【後編】

              タグ 1070年 東北1221年 日本1268年 できごと1268年 日本1271年 できごと1271年 日本1272年 できごと1272年 日本1274年 できごと1274年 日本1275年 できごと1276年 できごと1276年 日本1277年 できごと1277年 日本1277年 日本史1279年 日本1280年 日本1281年 できごと1281年 日本1282年 できごと1282年 日本1283年 できごと1283年 日本1284年 できごと1284年 日本1285年 できごと1285年 日本1286年 できごと1286年 日本1287年 できごと1287年 日本1288年 できごと1288年 日本1289年 できごと1289年 日本1290年 できごと1290年 日本1291年 できごと1291年 日本1292年 できごと1292年 日本1293年 できごと1293年 日本1294

                ☞【1861年、対馬はなぜ占領され、なぜ回復したか?】『勝海舟と幕末外交』ーイギリス・ロシアの脅威に抗して(上垣外憲一、2014年、中公新書)【後編】
              • 怨霊を鎮め、平安京を守った「上御霊神社」は、応仁の乱勃発の地 | ライフハックアナライザ

                奈良時代から平安時代にかけて、各地で天災が相次ぎ、疫病が流行しました。 都人は、これらを怨霊(おんりょう:恨みを抱いて、たたる霊)の仕業と恐れ、鎮魂の儀式を行いました。 また怨霊を、鎮護の神「御霊」として祀るために、御霊神社を建立しました。 今回は「御霊信仰」が広まるきっかけとなった事件と、応仁の乱勃発の地「上御霊神社」(かみごりょうじんじゃ)の歴史をお届けします。 平安遷都の時代より、皇族や京の人々に、広く崇敬される古社 京都最古の祭礼とも言われる「御霊祭」が催される上御霊神社(正式名:御霊神社)は、1200年以上前から京都を守護する古社です。 京都御所の北、御霊の森と呼ばれた地には、古くは地元の豪族の氏寺(うじでら:一族の菩提寺)上出雲寺の鎮守社(寺を鎮守する神社)がありました。 平安遷都の年、桓武天皇(かんむ:第50代天皇)が、早良親王(さわらしんのう:桓武天皇の実弟)の霊を鎮めるた

                  怨霊を鎮め、平安京を守った「上御霊神社」は、応仁の乱勃発の地 | ライフハックアナライザ
                • 足利義尚 - Wikipedia

                  足利 義尚(あしかが よしひさ)は、室町幕府の第9代征夷大将軍[2](在職:文明5年(1473年) - 長享3年 (1489年))。 『尊卑分脈』や『足利家官位記』により、後年、義凞[3](あるいは義煕)(よしひろ)と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の諱で知られる。 応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職をめぐる対立候補として擁立された。乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。 生涯[編集] 伝足利義尚像(天龍寺蔵、肖像については後述) 足利義尚木像(等持院) 寛正6年(1465年)11月23日[4][3]、8代将軍・足利義政と正室・日野富子の次男として生まれる。長らく実子のなかった義政は弟の義視を養子にしていたが、義尚が誕生すると将軍後継問題が発生した。義政は義視を中継ぎとして就任させてから、その上で義

                    足利義尚 - Wikipedia
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