遅すぎた気付きをどうにかして死なせず活かしたい。 そういう気持ちをストレートに綴るなり物語に乗せるなりして、せめて他人に役立ててもらおうとする。 でも何かを大切に思う気持ちなんてものは、自分の身体と時間を使った体験を通じて自分の心から湧き出た時に初めて重みを持つ。 食べ物の好き嫌いやチャリの乗り方をいくら言葉に変換した所で、その感覚は他人に受け渡せないように。 結局同じ後悔を抱く者同士でシェアして、感傷に至る酔いを与えるだけなのかもしれない。 そもそも「気付き」ですらなく、どんな選択にも伴うような後悔を実感や納得で振り切れずに、遡及的な粗探しをしているに過ぎないのかもしれない。 何を選びどう転んでも満足のいかない、救いようもない運命だったなんて考えたくもない。そんな出来レースの負け試合ではなく、正しい道もあったのだと信じたい。自分が判断を誤っただけだと。 でも自分の気持ちをそっくりそのまま