「二子」とは、百済の始祖となる温祚と沸流のことであり、井上秀雄は「越郡」を「中国浙江省紹興地方か」と注記している[24]。すなわち、浙江省紹興の娘が、遼寧省丹東市桓仁県に来て、朱蒙との間に、百済の始祖となる温祚と沸流を生む。拝根興(陝西師範大学)および葛継勇(鄭州大学(中国語版))は西安出土の在唐百済人墓誌の釈文のなかで、亡命百済貴族に「楚国琅邪」を籍貫(中国語版)とする人物がいることを指摘している[24]。山東半島から江南に及ぶ中国沿海部と百済の関係から考えて、中国沿海から東渡した集団、山東から遼東を経て朝鮮半島に到達したと考えられる集団と同じ行跡を辿った集団との関連性が指摘されている[24]。 『広韻』には、百済王の扶余氏は「中国呉の夫概から出た扶餘氏」と記録されている。 歴史[編集] 1996年に中国社会科学院において中国東北部・旧満州における歴史研究を重点研究課題とすることが決定さ