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ブックマーク / zuisho.hatenadiary.jp (2)

  • あなたはこの文章を読んで「こいつめんどくせえな」と思う - ←ズイショ→

    はい、掲題の通り、何一つ共感されずただ「こいつめんどくせえな」と思われる話をします。 今日、嫁と二人で街に軽く出る用事があったので、そのついでに以前一度だけ飛び込みでランチべてとてもおいしかったからその後も何度か飛び込みで足を運んでみたものの最初の一回以外は「すいません、今日もう予約でいっぱいなんですよ」と言われてリピートできていなかったステーキハウスに行けるなら行きたいねという話になりました。それで、9時に朝を済まして10時には家を出て、10時半すぎには街に出たところで11時オープンのお店に嫁が電話を入れることになりました。別にそういう業者との電話連絡はいつも嫁の仕事、というわけではないのだけれど僕がガラケーしか持ってなくて検索能力が幕末の侍レベル(つまりほぼゼロ)なので外出先の飲店への電話なんかは嫁がスマホでお店調べてそのまま流れでみたいなことが多いのです。で、まぁさっき朝飯

    あなたはこの文章を読んで「こいつめんどくせえな」と思う - ←ズイショ→
    quix_que
    quix_que 2016/11/04
    客が店側の都合を忖度する必要があるかないかというとないような気がする。
  • 人を信じられない人は人を信じすぎなのではないか - ←ズイショ→

    もう男なんて信じない! もう女なんて信じない! もう大人なんて信じない! もう人間なんて信じない! 昔はそれなりに気が弱くて空気を読む子供だったので、小学校低学年くらいの頃までは割に大人を信じていた。子供の知る大人っていうのは、いわゆる学校の先生とかそういう人のことだ。大人は僕ら子供のことを真剣に大事に思っているし、公明正大に物事を考えているし、自分たちが出来ているからこそ子供にも「みんなと仲良くしなさい」と言うのだし、そんな大人たちが見てくれているからこそ子供は無邪気でいられるのだし、だから自分は無邪気でいなければならないと思っていた。無邪気でいることこそが「私は大人を信じていますよ」という表明であり、こちらが信じていればこそ大人もそのように振る舞ってくれる。勿論その頃、そんな言語化なんてできているはずもなかったが僕はいわゆるそういう共犯関係のようなものを僕と大人を含む世界との間にイメー

    人を信じられない人は人を信じすぎなのではないか - ←ズイショ→
    quix_que
    quix_que 2016/05/02
    盲信と信じないの間には幅の広いグラデーションがあると思うんだけどな。/信じられないと感じたときには自分が間違った(身勝手な)期待をしていたのかもと考えるのは大事だと思うけど。
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