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ブックマーク / marron555.hatenadiary.org (2)

  •  『らき☆すた』と『ハヤテのごとく!』を見比べて - さらしはてな日記

    作中おたく濃度という点で、『らき☆すた』が淡々とヲタ話をするだけでマジヲタのリアリティを醸し出すのに比して『ハヤテ』はどこか「薄い人が無理をしている感」が漂ってしまう。これは原作やスタッフのセンスの差もあるが、版元の角川書店と小学館の違いに由来する部分が大きいのではあるまいか。使えるネタの多寡というよりも、角川がほとんどユーザとの共犯関係を築くほどにヲタビジネスに特化しているのに対して、小学館はどこかユニバーサルな意識が残っているぶん思いきりが足りない。その体質の違いが日曜朝アニメと深夜アニメの違いになって表れているようにも思う(アクマイザー3のほうがマッハバロンより濃い、という話ではもちろんない)。

     『らき☆すた』と『ハヤテのごとく!』を見比べて - さらしはてな日記
  •  どこまでつづくぬかるみぞ - さらしはてな日記

    新番組と書いてぬかるみと読む。 らき☆すた。OP、ニコニコ動画での再生数とコメント数に吹いた。それも当然、ハルヒEDのハイパー化ともいうべき過剰な音楽性と運動性、ロングショットでのダンスや的確な日常芝居と、ほんのわずかな時間の中にファンが京都アニメーションに期待するもののすべてが込められている。最も訴求力の高い表現を冒頭に濃縮するというのは非常に正しい戦略だ。一方EDは、1枚の背景で表現されるカラオケボックスの部屋の外に漏れ聞こえるアニカラ(新曲ですらない。しかも選曲がアレ)を流し続けるのみという過剰な簡素さだ。その簡素さから、かえってアニメーションの運動性が強調されてもいる。これまでの京アニ作品ではあまり見られなかった引き算の芸だ(例の長門の長回し読書はそれだけに印象的ではあった)。 ハルヒでは「シリーズ演出」を名乗ることで「作家のアニメではない」ことを主張した山寛の作家性は「運動性の

     どこまでつづくぬかるみぞ - さらしはてな日記
    ra-rosso
    ra-rosso 2007/04/10
    らき☆すた
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