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2015年4月2日のブックマーク (14件)

  • ネットワークプログラミングの基礎知識

    ネットワークプログラミングの基礎知識 ここでは IP アドレスやポート番号、クライアントとサーバの役割などを説明し、 perl・C言語・Java などでソケット (Socket) を使った HTTP クライアントや POP3 クライアント、簡単なサーバを作成してみます。 要はネットワークプログラミングをやってみよう、ということです。 このページのサンプルプログラムは、RFC などの規格に準拠した「正しい」プログラムではありません。 また、全体的にエラー処理が不十分です (今後改善する予定です)。 あくまでも概要を理解するためのサンプルととらえてください。 もし気でしっかりとしたクライアントやサーバを書きたいなら、このページを読んだ上で、 さらに RFC を熟読し、そして wget・Apache・ftp コマンドなどのソースを参考にしてください。 このページに間違いを見付けたら、掲示板

  • ハッテンという言葉の発祥について - ちゆ12歳

    ハッテンするなら池袋。 といった感じに、現在、「ハッテン」という言葉は、主に同性愛に関係して使われています。 ハッテン多数、1人で来訪2人で帰る館(1974年) 出版物で確認できるところでは、1960年代にはすでにこの表現が見られます。 戦後、エロ関係の出版は規制が厳しく、「現在、女性向週刊誌などにもSM小説が載っている時代になり」「最近の一般雑誌の小説類の中には、一昔前までは全然姿をみせなかったSM、フェチ、浣腸、男色などをテーマにしたものが、堂々と掲載されるようになった」(『奇譚クラブ』昭和44年7~8月号)などと言われるようになったのが1960年代でした。 そういったアレコレもあって、もしも古くから「ハッテン」が同性愛者間で使われていたとしても、『風俗奇譚』が成立するよりも前の出版物にそれを見つけるのは難儀で、「ハッテン」が普及した時期については、私には「少なくとも1960年代には使

    ハッテンという言葉の発祥について - ちゆ12歳
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●『ユリ熊嵐』の第六話を観た。六話の直接的な感想ということではないのだけど、観ながら考えたことを書く。 幾原作品では、具体的なイメージと抽象的な概念が同列に並んでいる。それは、具体的なりんごと、「果物」という概念が、一枚の皿の上に並んで出されているようなものだろう。この感じを上手くつかめないと、それをメタファーとして理解してしまうのだけど、それはたんに文字通り、字義通りの抽象的な概念なのだと思う。たとえば「ウテナ」に出てくる「世界の果て」というのは、何かの比喩でもないし、そう呼ばれる秘密組織でもなくて、そのまま「世界の果て」という概念で、概念から手紙が届き、それぞれ具体的な姿や事情を持つ生徒会のメンバーたちは、概念からの手紙に従って決闘をしていると考えればいいと思う。そして、決闘の勝者に与えられるという「世界を革命する力」というのもまた、まさにそのまま文字通りの「世界を革命する力」という概

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    ●押井守の「パトレイバー2」を改めて観直してみた。 一方に、カリスマ的な、孤高のテロリストのリーダーがいて、その策略によって自衛隊と警察とが対立するという危機的な事態が引き起こされ、その状況に対し、自衛隊や警察、そして政府といった正規の組織(その主流にいる権力者やエリートたち)は無能をさらすばかりで何の対策も打てない。そんな時に、警察組織の内部にいながらも、時流から遅れ、主流から外された、(事情があり癖も強い)組織内のはぐれ者というべき人たちによってつくられる独立性の強い(組織というより)自主的協働のネットワークによって事態が打開される。 このような物語のパターンや、機能しない正規な組織(正統なエリート)に対する組織内逸脱者たちのアソシエーションという図式は、この後、神山健治版「攻殻機動隊」の公安九課や、「ナデシコ」の(寄せ集めの)民間軍事組織など、90からゼロ年代のすぐれた作品において反

    ■ - 偽日記@はてなブログ
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    ●シネスイッチ銀座に、ゴダール『さらば、愛の言葉よ』を観に行った。映画がなかった時代に初めて映画を観た人は、こういう驚きを経験したのではないか、というような驚き。なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、と思っているうちに七十分が過ぎた。とにかく、えっ、今の何?、何が起こってる?、という連続だった。混乱の多くは「これ」が起こっているのが何処なのかが判然としないところから来る。画面なのか、眼なのか、脳なのか。 右目と左目の間の距離が勝手にのびたり縮んだりして、右目と左目が勝手に別々のものを見たりしはじめる。脳のなかに直接手をつっこまれてかきまわされている感じ。今までにまったく経験したことのない知覚体験をした。これは、人間の脳の構造を作り替えようとするような3Dだと思う。素朴な疑問だが、ゴダールはこれをどうやって編集しているのだろうか。観終わった後、首の後ろ側が痛いくらい凝っていて、帰り

    ■ - 偽日記@はてなブログ
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    ●浪人時代の恩師が亡くなったという連絡を受けて動揺しています。大学に入ってからはお会いすることはほとんどなかったですが、ぼくにとって、美術における最初の先生でした。 ●『ユリ熊嵐』第7話。今回の銀子の話、かなり直接的というかえげつないというかなまなましいというか。熊と人間との戦争ということになっているけど、神からの承認のために銃をとるということは、銀子は軍人というよりテロリスト(というか、テロリストを想定した存在)ということだろう。るるがお姫様だったこととはずいぶん違う。紅羽も銀子もどちらも銃をもつ存在だが、紅羽の銃はいわば熊を狩る猟師の銃であり(紅羽の部屋にはマタギ風の笠と蓑がある)、銀子の銃は(おそらく神からの承認のためには自爆テロさえ厭わないような)テロリストの銃である。この違いは、十分に「断絶の壁」であり得る。紅羽は人(母や純花)のために熊を駆除するが、銀子はクマリア様からの承認の

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    ●『ユリ熊嵐』第八話。思いの外『嵐が丘』っぽくなってきた。ちょっと前から匂わされてはいたが、今回はっきり、透明な嵐=同調圧力という解釈がミスリードであることが明らかになった。排除の対象は匿名なものたちの投票(空気)によって決まるのではなく、はじめから紅羽と決まっていて、そのように仕向けられる空気がユリーカの誘導によってつくられていた。いわば、嵐が丘学園そのものが、ユリーカが、紅羽を排除することで自分のものにする(復讐する)ための装置であった。紅羽も、学園の他の生徒たちも、大人(親の世代)が用意した舞台のなかで、その思惑通りに踊らされていたことになる。そうだとするならば、その体制(舞台装置)に最初に気づいて抵抗したのが純花だったことになる。紅羽が純花に手をさしのべたのではなく、純花こそが紅羽を救おうとした。ここで再び、純花という存在の重要性が浮上する。 だとすれば、紅羽と純花の関係は、(紅羽

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    ●ぼくにとって、ゴタールの3Dによって突きつけられるものは、「ゴダールは何をしているのか」というより、「わたしたちの知覚(脳)はどうなつているのか」ということの方だ。今、「青と黒」に見えるのか、「白と金」に見えるのか、という画像が話題になっているけど、ぼくにとってゴタール3Dはそれに近い。 だからそれは、作品というよりも怪奇現象のようなものと言えるかもしれない。「幽霊なんか信じてないのに、なんか見えちゃったんだよねえ」とか、「そこに女の人がいるのに、みんな見えないって言うんだよねえ」と、誰かが言うときの気味の悪さ。あるいは、「わたし」にそれが起こった時どうすればいいのか、みたいなこと。ありありと、いきいきと、「見えてしまった」のだけど、その「見えた」ことの根拠は実は何もない、というような感覚。 「画面そのものを観る」とか言うけど、「画面そのもの」なんか何処にあるんだよ、ということ。3Dは、

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    ●『ユリ熊嵐』第9話。そうきたか。前回ぼくが立てた予測は大きく外れたわけだけど、傑作の予感の漂うなかなかすごい展開。それにしても、ここへ来て新キャラ登場(大木蝶子)とは。そして、銀子は常に介抱されるキャラなのか。純花はもう、これ以上の役割はないのだろうか。 ●あの雪の風景が「友達の扉」の場所なのだとすれば、銀子が子供時代の紅羽と出会ったのも「友達の扉」だったということになる。それは、日常と地続きの場所ではないようだ。そして、そこで蜜子と会うということは、月と森の間にある友達の扉というのは、死と生の間にある領域であるようだ。ならば、瀕死のユリーカが紅羽の母の姿を見た執務室もまた、(ユリーカにとっての)友達の扉といえるのかもしれない。 生と死の中間に位置する友達の扉で、銀子は、かつては生の側から来た紅羽に出会い、今度は死の側から来た蜜子に出会ったということなのだろうか(ここで蜜子はゾンビのよう

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    ●『ユリ熊嵐』第十話。どんどんすごくなってゆく。 構造と一回性。わたしは、すべてのどの「わたし」でもあり得たのに、なぜ「このわたし」なのか。というか、すべての「わたし」がなぜ「このわたし」としてしかあり得ないのか。 たとえば、かつて銀子を「友達の扉」の向こう側へ帰した紅羽の母の行為を、今回、るるを「友達の扉」の向こうへ帰す紅羽が反復する。あるいは、かつて、浴槽の外から銀子の髪を洗っていたるるが、今回、銀子の位置へとスライドして、浴槽のなかで紅羽に髪を洗ってもらっている(紅羽がるるの位置に移動する)。同一の構造の反復があり、その同じ位置が、紅羽の母から紅羽へ、銀子からるるへという風に、異なる「このわたし」にスライドする。つまり、紅羽はかつての母の位置に、るるはかつての銀子の位置に立つ。 あるいは、銀子-紅羽-純花(わたし-スキ-邪魔者)という関係と同一の構造が、るる-銀子-紅羽(わたし-スキ

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    ●『ユリ熊嵐』第十一話。 ●銀子が一方的に「紅羽に見つけてもらった」ということではなく、紅羽も銀子に助けられたという対等な関係になっていた。紅羽もそもそも孤独な子供であり、「友達の扉」のなかにふらふらと誘い込まれる、いわば神隠し体質であった。だから、紅羽もまた、もし銀子に出会わなかったら「(この世に)帰ってくる」ことができなかったかもしれない。 ●信仰の問題。紅羽と出会った銀子は、紅羽の姿のなかにクマリア様を見る。クマリアへの信仰は、孤独な銀子をテロリストに仕立て上げる危険なものでもある。しかし、その危険なクマリアへの信仰がなければ、銀子と紅羽との出会いはなかったかもしれない。あるいは、銀子と紅羽との関係はもっと弱いものであったかもしれない。 信仰(≒正義)と空気とは対立する。一方に危険な信仰があり、もう一方に空気への追従がある。しかし、信仰も空気も、どちらにしても人(熊)を同じ様な行為へ

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  • ユリ熊嵐 2015-04-01 - 偽日記@はてな

    ●『ユリ熊嵐』、最終話。おそらく、この作品を駆動させている根的な欲動は、殺しても殺しても何度でも蘇ってくる(まさにゾンビのような)不気味なるるの弟(みるん)に最も直接的に現れている。それは、システムの側からみれば、透明さを維持するためにいくら厳重に配慮しても、必然的にわき出てきてしまう「スキをあきらめない」存在と重なる。システムは、その透明性を保つために必然的に排除されるべきスケープゴートをつくらなければならない。だが、そのような、システムの都合によって仕立て上げられる排除の対象と、内発的にわき出てしまう(自らそこをハズレようとする)「スキをあきらめない」存在たちとは異なる。前者はシステムの一部だが、後者はその破れであろう。 その不気味さと釣り合うように過剰にかわいく造形されているみるんの存在は、「スキをあきらめない」ことを正当化する根拠は別にどこにもないということを示してもいる。みるん

    ユリ熊嵐 2015-04-01 - 偽日記@はてな
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    ●『魔法少女まどかマギカ』を改めて最後まで観て、もう一度「魔法少女たちの舞台装置」(石岡良治『「超」批評 視覚文化×マンガ』所収)を読み返した。そして、うーん、成る程、と、改めて唸らされた。 まどかは、作品世界内の物理法則に従いつつ、その範疇で魔法少女-魔女システムを改変するという奇跡を、ラッセルのパラドックスのような「願い」を創造することによって成し遂げたと言える。しかしそれによって、自分自身がラッセルのパラドックスのような存在になってしまった。 ちょうど今『ユリ熊嵐』をたまたま観ているからそう思うのかもしれないけど、「まどマギ」と「ユリ熊」(というか、幾原作品)とは対称的でもあり、相互に相手を批判し合っていてもいるような緊張関係にあるのではないかと思った。 (「ユリ熊」最終回についてはまた別に書くつもり。) まず、幾原作品ではシステムは改変されない(つまり、その意味では革命は起こらない

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  • パンを一瞬でスキャンして爆速でレジ会計が終わるパン屋さん「ベーカリーファクトリー」に行ってきた

    株式会社ダスキンが展開している最新レジシステムを導入したパン屋さんが「ベーカリーファクトリー」です。製品のバーコードを使うスーパーとは違い、パン屋では店員がパンの値段を覚えて打ち込んでいくことで会計レジが行われますが、ベーカリーファクトリーでは購入するパンをまとめてスキャンして一瞬でレジ打ちを終了させるという、驚異的な方法が取られています。 ベーカリーファクトリー店舗情報 https://www.duskin.co.jp/service/bakery-factory/index.html ベーカリーファクトリー茨木真砂店の住所は大阪府茨木市真砂1丁目6。 お店は「真砂1丁目」というバス停の目の前にあります。 オープンテラスもあるので、天気のよい日は購入したパンを外でべても気持ちよさそうです。 お店に入ってみると、店内は広々としていました。 焼きたて・揚げたてのパンがずらりと並び…… ジャ

    パンを一瞬でスキャンして爆速でレジ会計が終わるパン屋さん「ベーカリーファクトリー」に行ってきた