● もう一つの古事記の説話 ● 昔、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)という美女がいた。 「そんなに美人なのか」 うわさを聞きつけた大物主神が見にいってみると、うわさ以上であった。 「おお、すごすぎる!」 大物主神は勢夜陀多良比売に一目ぼれした。夢中になった。なんとか彼女が外へ出たときを見計らって声をかけようと試みた。 でも彼女、かなりの出不精のようで、トイレのときしか外出しなかった。しかも用がすめば、すぐに家の中に引っ込んでしまうのである。 これでは声をかけるチャンスがない。用を足している最中しか、チャンスがない。 「まさか最中に声をかけるわけには……」 はじめはそう思ったであろうが、ほかに機会がないので、強硬手段に出るしかなかった。 「それにしても、どうやって声をかけようか」 大物主神は考えた。いいことを思いついた。 赤い矢に化けると、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流
● 日本書紀の説話 ● 昔、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)という令嬢があり、彼女のもとに通ってくる男があった。 例の大物主神である。 大物主神は暗くならないと現れず、夜明け前にどこへともなく去っていった。 そのため、倭迹迹日百襲姫命は夫の顔を見ることもできず、不満だった。 あるとき、倭迹迹日百襲姫命はたまりかねて大物主神に言った。 「たまにはもう少し遅くまでとどまっていてください。そうすれば私は、あなたのうるわしいお姿を見ることができます」 大物主神ももっともなことだと思った。 「では明日の朝、私はあなたの櫛(くし)箱の中に入っていよう」 「櫛箱の中?」 そんな小さい箱の中に、どうやって人が入るのであろうか? 大物主神が笑って言った。 「そうだ。ただし、真の私の姿を見ても、決して驚かないように」 倭迹迹日百襲姫命は変に思ったものの、翌朝、まさかと思って櫛箱を開いてみた。
宗貞は承和十一年(844)二十九歳の時、蔵人(くろうど。蔵人所職員)として出仕した(「詐欺味」参照)。 翌年には従五位下を賜り、左兵衛佐(さひょうえのすけ)・左少将(さしょうしょう)を経て、嘉祥二年(849)三十四歳で蔵人頭に昇進した。つまり、天皇の筆頭秘書に昇り詰めたわけだ(「古代管制」参照)。 時の帝は、嵯峨天皇の第一皇子・仁明天皇(にんみょうてんのう)。 宗貞より六歳年上の、温和で聡明な文学壮年であった。天皇は彼を信頼し、彼は天皇を尊敬していたと思われる。 ある年、五節舞(ごせちのまい)があった。 五節舞とは、豊明節会(とよのあかりのせちえ。「 泥酔味」参照)で催された女舞のことである。 舞姫には、公卿や国司の娘の中から美女ばかりが選ばれるので、役人たちに人気があった。 宗貞も、毎年この女舞を楽しみにしていた。後には出家する彼も、それ以前は「すけこまし」で通っていた男である(在原業平
元慶寺(京都市山科区) ・欣浄寺(京都市伏見区) ・小町寺(京都市左京区) ・二ツ森(秋田県湯沢市) ・美男塚(山形県米沢市) 深草少将は名前ではない。 山城深草(京都市伏見区)に住んでいた少将という意味である。 本名は良峰宗貞(よしみねのむねさだ。姓は良岑とも)。出家して遍照(へんじょう。遍昭とも)といった。有名な六歌仙の一角をなした、あの男のことである。 宗貞の父は良峰(良岑)安世(やすよ)といった。 平安京造営者・桓武天皇の皇子で、大納言まで昇進したエリート官僚である。 博学であった安世は、異父兄・藤原冬嗣らと日本最初の勅撰儀式書『内裏式(だいりしき)』を選上、平安時代初期の正史『日本後紀』や、勅撰漢詩文集『経国集』編集にも携わる一方、狩猟を趣味とし、音楽にも堪能(たんのう)であった。 延暦二十一年(802)、安世は良峰姓を賜って臣籍降下された。宗貞が生まれる十四年前のことである。し
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