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朕(ちん)は何も知らなかった。 何も知らずに一歳で皇太子になり、九歳で天皇になり、二十八歳で譲位し、三十一歳の若さであの世へ旅立つはずであった。 しかし、朕は知ってしまった……。 あの男によって、すべてを知らされてしまった……。 いや。あれはすべてではあるまい。 あれはあの男が知っていた一部であって、他のすべてはいまだ闇の中にある。 「帝は、帝の『おじいさま』をお好きですか?」 あるとき、あの男は朕に聞いてきた。 朕の『おじいさま』とは藤原良房(「藤原北家系図」参照)。 貞観七年(865)当時には、人臣の最高位・太政大臣を務めていた政界首班である。 朕は迷いなく答えた。 「好きだが」 「なぜ?」 「なぜって、ジイジは優しいから」 あの男は笑った。 「帝の『おじいさま』は帝には優しいですが、他の人からすれば、必ずしもそうとは限りません」 「ジイジは朕以外の人には冷たいのか?」 「人によっては
天正元年(1573)九月二十六日、長島一向一揆を救援するため、南近江元領主・六角義賢(ろっかくよしかた。承禎)の残党や南近江一向一揆の人々、伊賀・甲賀(こうか・こうが。滋賀県甲賀市)の忍者たちが連合して峠を越え、伊勢へ侵攻してきた。 「近江勢は伊勢西別所(にしべっしょ。三重県桑名市)城へ籠城(ろうじょう)ー!」 報告を受けた上様は、佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀(にわながひで)・蜂屋頼隆(はちやよりたか)・氏家直昌隊を遣わして攻略させた。 また、柴田勝家・滝川一益(たきがわかずます)隊は、伊勢坂井(さかい。桑名市)城と伊勢北廻(きたまわり。桑名市)城を陥落させた。 「西別所城落城!全城兵女子供皆殺しー!」 「坂井城陥落ー!全城兵女子供皆殺しー!」 「北廻城も落ちましたー!全城兵女子供皆殺しー!」 これにビビッたのは、第一次長島一向一揆攻め後に一向一揆側に寝返っていた北伊勢の諸豪族たちである
天正二年(1574)八月十二日、今度は篠橋城の城兵が織田信長に降伏を申し出てきた。 「降伏は許さぬ」 信長は一点張りであったが、篠橋城を攻めていた織田信広が、篠橋城将・太田修理亮(おおたしゅりのすけ)を捕らえてやって来た。 「太田が上様に申し上げたきことがあると」 「何度でも言う。降伏は許さぬ。戦に情けは無用!弟信興は一揆どもに情けをかけたために殺されたのだ!兄者も信興の兄であろう!弟を殺した一揆どもが憎くないのかっ?」 「私だって憎い。しかし、時には情けも必要だ。私は上様の情けがなければ、こうして生きながらえてはいなかった」 弘治三年(1557)頃、信広は当時の美濃国主・斎藤義竜(さいとうよしたつ。「最強味」参照)とともに信長排斥をたくらんだことがあった。 が、信長は未然に察知し、兄を許したのである。 「わかった。話だけは聞こう。ただし、その後どうするかは余の勝手だ」 「すまぬ」 信広は
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