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第三次長島一向一揆攻め4.生きてゐる兵隊
天正二年(1574)八月十二日、今度は篠橋城の城兵が織田信長に降伏を申し出てきた。 「降伏は許さぬ」 信... 天正二年(1574)八月十二日、今度は篠橋城の城兵が織田信長に降伏を申し出てきた。 「降伏は許さぬ」 信長は一点張りであったが、篠橋城を攻めていた織田信広が、篠橋城将・太田修理亮(おおたしゅりのすけ)を捕らえてやって来た。 「太田が上様に申し上げたきことがあると」 「何度でも言う。降伏は許さぬ。戦に情けは無用!弟信興は一揆どもに情けをかけたために殺されたのだ!兄者も信興の兄であろう!弟を殺した一揆どもが憎くないのかっ?」 「私だって憎い。しかし、時には情けも必要だ。私は上様の情けがなければ、こうして生きながらえてはいなかった」 弘治三年(1557)頃、信広は当時の美濃国主・斎藤義竜(さいとうよしたつ。「最強味」参照)とともに信長排斥をたくらんだことがあった。 が、信長は未然に察知し、兄を許したのである。 「わかった。話だけは聞こう。ただし、その後どうするかは余の勝手だ」 「すまぬ」 信広は
2013/10/13 リンク