透明なゼリーに覆われて 初めて『現代の批判』を読んだのは高校時代だった。 そのころぼくの全身は、まるで透明なゼリーで覆われているようだった。 すぐそこにあるもの、たとえば花、ナイフ、本に手を触れても、ぼくの指先には何も伝わらない。実感がないのだ。確かに花を摘み、ナイフを握り、本を開いている、そのありさまは眼にはしっかり映っているというのに。 だからといって、何がつらいというのではない。つらいことなんてない。恵まれて、幸福で、何の不満もない生活のはずだ。そのことは十分に自覚していた。 だがそれでも、このままの状態ではぼくは生きていけないと思った。ゼリーを体からすっかり落として、物に、出来事に、人に、この手この指で、じかに触れられるようにならなければ。 得体の知れない何か、破局のようなものが静かに近づいてくる。そんな気配がする。 しかし透明ゼリーに覆われたぼくは、それさえも鮮やかに感じ取ること