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思想-権力に関するrrmmjjffのブックマーク (3)

  • デカルトによるコギトの発明 <わたくし的読解>二日目 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1)フーコーの権力論と主体の不在 昨日の続きですが、フーコーは19世紀ごろに全面化した生政治を明らかにしました。生政治は生権力と規律訓練権力の両輪でできています。生権力は国家内の人口をいかに管理・運営するか。それによってグローバルな国家間の競争に勝っていくこと、それぞれが競争することによる均衡が目指されます。このような国家的な戦略は規律訓練権力によって末端へと実践されます。規律訓練は管理された環境によって、身体を訓練・教育する装置です。学校、企業、病院などなど。 しかし間違いが多いのですが、これは必ずしも軍隊のように画一した身体を作り出す強制的なものではありません。目的は経済的な競争力であり、国力に役立つ人材の育成のために、自主的で、向上心があり、創造的な人材が求められます。日人が4人もノーベル賞を取りましたが、彼らのような人々が国を挙げて歓迎されるのは、日の生政治の成果とされるからで

    デカルトによるコギトの発明 <わたくし的読解>二日目 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ現代の最大のイデオロギーは「商品」なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    お風呂に入ると行為への意識が飛ぶ ボクはお風呂に入ると行為への意識が飛ぶことがある。お風呂は暖かくて血の巡りが良い、密室で集中できるなどあるからだろう。頭がよくまわる。いろいろ考えごとをしていて気がつくとお風呂から出ている。体を洗ったことは覚えているが、あれ隅々まで洗ったかな?と考える。考えとは別に行為が進められる。体の洗い方は毎日反復しているので自然と体が動くので、いちいち意識する必要がないのだ。 このようなことはそれほど珍しいことではない。たとえばいまPCのキーボードを叩いているが、いまS、次Aと意識などしていない。言葉にそって勝手に指が動いている。ボクはローマ字シフトであるが、これがひらがなシフトでの入力となると、キーボードを睨んで、「さ、さ、さ・・・あった!」と羽目になるだろう。意識はキー探しするためにフル活動で他のことには回らないだろう。 人が様々に行為するためにはいちいち意識せ

    なぜ現代の最大のイデオロギーは「商品」なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 談 Speak, Talk, and Think

    「生-権力」はどのように現れるか 杉田敦 Atsushi Sugita 生-権力というのは国家権力を通じて現れるわけですが、必ずしも否定的なものとして出てくるとは限らない。 ある場面では、ポジティヴにも解釈できることもあるんです。生-権力とは、そういう二面性をもっている。 というか、そもそも権力というもの自体が、二面性をもっているものなんです。 生-権力にしても権力のメカニズムにしても、いいか悪いかというものではなくて、そこに既にあるものなんです。 それをどのように受け入れるかは、個人の問題であり、自分の問題です。 すぎた・あつし 1959年群馬県生まれ。東京大学法学部卒業。現在、法政大学法学部教授。政治理論専攻。著書に、『境界線の政治学』岩波書店、2005、『デモクラシーの論じ方』ちくま新書、2001、『権力』岩波書店、2000、共著書に、『社会の喪失』中公新書、2005、訳書に、『アイ

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