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ブックマーク / hokusyu.hatenablog.com (25)

  • 過ぎ去ろうとしない過去 - 「歴史家論争」について

    ずいぶん昔に長文を書いたのだが、アップするのを忘れていた。 「歴史家論争」は、ドイツ人の「国民の物語」を巡る問題と直結している。その発端は、1986年にフランクフルトで行われる予定になっていたエルンスト・ノルテの公演内容の講演と、同年に発表されたアンドレアス・ヒルグルーバーの著書『ふたつの没落』に対する、ユルゲン・ハーバーマスの批判であった。 ノルテは、ユダヤ人の大量虐殺という「過去」は、ドイツ人にとって永遠に消えないスティグマとして刻印付けられており、そのことが過去の歴史に対する冷静な検証をかえって行うことを妨げていると述べる。ドイツ人が、「最終的解決」の問題にあまりにも注意を向け続けているあまり、ナチ時代に行われた他の諸問題、あるいは現代なお行われている他の虐殺の問題が、なおざりにされている、と。 このような動きに対して、ハーバーマスは「国民意識の再生」に対するドイツ国民のコンセンサス

    過ぎ去ろうとしない過去 - 「歴史家論争」について
    rrmmjjff
    rrmmjjff 2009/04/19
  • ■ - 過ぎ去ろうとしない過去

    歴史学的に歴史家の仕事はどのように読まれるべきかという問題は、歴史家が歴史家としてほかの歴史家に対する態度のあり方に関わってくる。次にあげるユルゲン・コッカの「歴史家論争」についてのコメントは、この問題に対するひとつの解答である。長いよ。 ノルテの比較のテーゼが、いかにいい加減に、救いのない仕方で、また部分的に弁護論的に提起されているにもせよ、それがスキャンダルなのではない。来の挑発は、むしろ次の点にあったし、今なおそうである。すなわち、ノルテは、一方での、時間的に先行する―内戦期およびその後のスターリンの大量テロルの形での―ボルシェヴィキーの「アジア的階級殺りく」と、他方での、時間的にそれに続いて起こった国民社会主義の「人種殺りく」との間に因果連関を設定し、後者を、存続する「アジア的」脅威に対する国民社会主義者の防衛反応、それも理解できなくはない、いわば予防的な防衛反応と解釈しているの

    ■ - 過ぎ去ろうとしない過去
  • パレスチナ解放とホロコースト否認の結びつきについて - 過ぎ去ろうとしない過去

    先日、とある人とパレスチナ問題について話していて、その人は日における反イスラエルの言説が反ユダヤ主義に結びつくことを危惧していたのですが、ぼくはさすがにそんなバカな話はないだろうと、たかをくくっておりました。 でも、あるんですねこういうのって。 ■歴史問題と政治問題の憂な関係、あるいは、歴史的修正主義について http://d.hatena.ne.jp/negative_dialektik/20090317/1237279039 確かにドイツでは1970年代後半のレバノン侵攻以降高まったイスラエルへの批判の一部が、ホロコースト否認論と結びついて問題になったことがあります。日でも、チベット解放と南京大虐殺否定論が反中という点において結びついているネットウヨクがいるように、それ自体正当なものである批判的言説が歴史修正主義の侵入を許してしまうのは、ありえないことではなかったのでした。 歴史

    パレスチナ解放とホロコースト否認の結びつきについて - 過ぎ去ろうとしない過去
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    rrmmjjff 2009/04/17
    「ドイツでは1970年代後半のレバノン侵攻以降高まったイスラエルへの批判の一部が、ホロコースト否認論と結びついて問題になったことがあります。日本でも、チベット解放と南京大虐殺否定論が反中という点において結
  • 個人と民族主義 - 過ぎ去ろうとしない過去

    ■民族主義の問題 http://www.mojimoji.org/blog/nationalism ■民族主義とは別の道 http://www.mojimoji.org/blog/0179 ■民族主義の問題、その2 http://www.mojimoji.org/blog/nationalism2 mojimojiさんの議論は、次のような図式を前提にしている気がします。 そもそも、在日コリアンとか、沖縄人といったカテゴリは、たとえば在日コリアンの家族あるいは沖縄で生まれた者にたいして、アプリオリにはその質を規定しない。したがって、「あるべき」在日コリアンや沖縄人は存在しない。在日コリアンであるとか沖縄人であるとかいったものは、男や女あるいはセクマイなどと同様に、「わたし」を構成する要素のひとつとして存在する。その要素にたいしてアイデンティティを持ち、その要素を尊重して生きることは否定され

    個人と民族主義 - 過ぎ去ろうとしない過去
    rrmmjjff
    rrmmjjff 2009/04/17
    なぜ、マイノリティだけが「選択」を強いられるのでしょうか?その構図においては、マイノリティの中にあるマイノリティだって、その文化集団を選ばないという「選択」を強いられることにかわりはないのです。それだ
  • ■ - hokusyu’s blog

    歴史家がある歴史的証拠に向かうとき、その読み方には2つの立場がある。ひとつは歴史的証拠は現実に向かって完全に開かれているとする、ランケ以来の実証主義的な立場である。それに対して、デリダが「テクストに外部はない」といったように、テクスト=歴史的証拠は現実に対して閉ざされているとするポストモダン的相対主義の立場がでてきた。ヘイドン・ホワイトは歴史叙述においてこの相対主義を推進する。彼は歴史は構築主義的な語りから逃れられえないとして、歴史叙述をレトリックとナラティヴの次元へと還元する懐疑論の立場に立つ。カルロ・ギンズブルグは、実証主義的な、歴史的証拠を「開かれた窓」だと信じる立場には懐疑を示しつつも、ホワイトのいう現実への接近を放棄したナラティヴな歴史叙述も同時に退ける。*1彼によれば結局実証主義的立場とポストモダン的立場の差異は、「現実」と「証拠」の関係を単純に結びつけることから起こる立場の違

    ■ - hokusyu’s blog
    rrmmjjff
    rrmmjjff 2009/04/14
    via ギンズブルグ