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ブックマーク / www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto (3)

  • 橋本努「リチャード・ローティを脱構築する」

    HOME リチャード・ローティを脱構築する 『理戦』no.74, 2003 Autumn, pp.66-87. 橋努 0.はじめに 「それを言っちゃぁ、おしまいよ」――世の中には、聞いてしまったら身も蓋もない答えが返ってくるような問いがある。哲学者リチャード・ローティが執拗にたずねまわるのは、そんな問いだ。とりわけ彼は、自身が身を置くアカデミックな正統哲学を無用であると告発し、哲学にルサンチマンを抱く人たちの生を肯定する。その魅力は、共倒れを覚悟で相手に最大のパンチをかますという、アイロニーの手法にあるだろう。相手を倒すが、自分もいずれ倒れる覚悟を決めておく。哲学に対する彼のアプローチは、そうした捨て身戦法にかける「意気込み」にある。 だが一方で、ローティの痛快さを嫌う人も多い。批判者たちによれば、「ローティのいうアイロニストの語彙では、民主主義を支持する理由を次の世代へ伝えていくことは

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    rrmmjjff 2009/10/21
  • 書評的省察「井上達夫のリベラリズムと向き合う」

    HOME 書評的省察:井上達夫のリベラリズムと向き合う 2003/12/18 橋努 (以下のエッセイは、2003年12月13日の東京法哲学研究会における私のレジュメに加筆・修正したものです。当日の内容は、井上達夫氏の近著をめぐる合評会であり、コメンテイターは亀洋氏と私でした。) 0.はじめに 現代の社会哲学・社会思想を語る上で、おそらく井上達夫ほど重要な思想家はいないであろう。リベラリズムの刷新によって、コミュニタリアニズムや熟議民主主義などの諸思想を自らの体系に取りこむというその独創的な思想は、いまや現代社会における「普遍」として君臨するイデオロギーであるかのようにみえる。この思想はしかし、どこにその首頚骨をもつのだろうか。この思想によって包摂されない別の可能性は、どこにあるのだろうか。 以下では、井上達夫著『普遍の再生』および『現代の貧困』において詳述された井上流リベラリズムの思想

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    rrmmjjff 2009/10/15
  • 橋本努「リベラリズムを考える10冊」

    リベラリズムを考える10冊 橋努 『インターコミュニケーション』no.33, 2000.5. 「特集 21世紀のための500冊/IC版ミレニアム・ブックガイド」 リベラリズム(自由主義)は自由を最大限に重んじる思想ではない。例えば、自由の意味を「解放」としてこれを重んじる思想は、マルクス主義や神学であって、リベラリズムではない。また自由を「強制の排除」とみなしてこれを最大限に重んじる立場は、アナーキズムやリバタリアニズムであって、リベラリズムの流からは少し外れる。現代のリベラリズムにはさまざまなバージョンがあるので、「リベラリズムというのはこういうものだ」と総括しても、実はあまり理解したことにはならない。むしろ必要なのは、自分にとって自由とは何か、いまの社会にとって必要な自由とはどのようなものか、といった問題について、自分なりに筋の通る考えを作っていくことだろう。 そのために押さえてお

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