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2008年4月8日のブックマーク (3件)

  • 「征夷」の原像 - 我が九条

    幕府の首長はなぜ「征夷大将軍」なのだろうか。郷和人氏の言う通り鎮守府将軍でも征東将軍でも都督でもよかったのだろうか。結論から言えば確かに武人に対する指揮権を象徴する「将軍」という称号であれば何でもよかったのだろう。頼朝が「征夷大将軍」を選択したのは、おそらくは「将軍」の中でも一番格が上だったから、ということになろうか。 頼朝が奥州藤原氏征伐をどのように位置づけていたのか、については諸説がある。私はこれは一種のセレモニーであったと考えている。源平合戦はセレモニーにするには大きすぎる戦いであった。勝つか負けるかという激越なる戦争の中では武家の棟梁であることを誇示することは出来ない。そもそも頼朝が武家の棟梁になるには源平合戦を勝ち抜かなければならないのだ。源平合戦を勝ち抜いた頼朝にとって、武家の棟梁であることを示す絶好の機会が奥州藤原氏討滅であった。義経を匿った罪は言いがかりに過ぎない。藤原泰

    「征夷」の原像 - 我が九条
    rsc_works
    rsc_works 2008/04/08
    頼朝のセレモニー奥州征伐は秀吉の小田原出兵と同じ。奥州藤原氏の滅亡が北海道史に与えた影響は勉強しておこう。
  • エミシの歴史の終焉 - 我が九条

    「日」がその境界を北進させ続けたのは、北アジアの物品がほしかったからであろう。エミシは「日」の北辺に位置する「日」の外部であり、同時に北アジア交易ネットワークと「日」との結節点に位置していたのである。我々はややもすれば北アジアの社会を「辺境」と捉え、生産力の劣った社会とみがちである。そして農耕社会が成立しなかった北アジア地域において交易ネットワークが成立していることに奇異な感想を持ってしまうかもしれない。一般に交易の「商品」は余剰生産物で発生するものであり、北アジアのように農耕社会が成立しない「遅れた社会」では自給自足の社会が成立していた、と考えがちである。 ハンガリーの経済学研究者のカール・ポランニーは『経済と文明』の中で、我々が「交易」という概念で捉えがちな経済的利益から離れた交易に着目する。それは異文化集団同士の安全保障のための威信財の交易である。異文化集団の間ではとかく文化

    エミシの歴史の終焉 - 我が九条
    rsc_works
    rsc_works 2008/04/08
    とてもわかりやすい東北史 参考文献知りたい。
  • アイヌとは何か - 我が九条

    ここまで「アイヌ」という言葉をずいぶん蕪雑に使ってきた。しかし「アイヌ」とは何か、という問題が閑却に付されてはいけない。 同級生「知里君、北海道ならアイヌを見たかい」 知里真志保「アイヌが見たかったら、このおれがアイヌだよ」 知里「なんで遠い北海道まできたの?」 少年「アイヌが見たかったから」 知里「ナニィッ、アイヌがみたくって!そんならここに立っているこの俺をよくみろ。それで十分だろッ」 この同級生は後に運輸事務次官を経て新東京国際空港公団総裁に就任する。エリートであったこの同級生にとって、第一高等学校の同級生にアイヌがいるとは夢にも思わなかったであろう。また少年にとってはまさか目の前の北海道大学教授がアイヌだとは思いもしなかったことだろう。おそらく彼らの頭の中にはアイヌに関する固定観念が存在していたのであろう。それは彼らだけではなく、今の我々にも存在している。アイヌを「原日人」ととら

    アイヌとは何か - 我が九条
    rsc_works
    rsc_works 2008/04/08
    「アイヌ史は日本史の部分史ではない。」交易民族であるが故に和人との関わりが多かったために日本史にぶら下がった歴史と勘違いする人は多いだろう。