社会という「信頼関係」 姉歯建築偽造問題でも、ホリエモン逮捕でも、アメリカ牛肉問題でも、露呈しているのは、僕らはある「信頼関係」の中で生きているということだ。だから「まさかそこまで」ということが起こる。これはいかんともしがだいだろう。どのような厳しい規制、管理をおこなわれようが、「信頼関係」の領域は残るだろう。 これは規制の問題ではなく、コミュニケーションの問題である。完全なコミュニケーションは存在せず、他者との間にはかならず「暗闇への飛躍」があり、自己責任で、リスクを抱え、「信頼」を持ち、飛び込むしかない。すなわちこれは確率論の世界である。 しかしだからといって、まるでジャングルを徘徊するように、毎日リスクの高い世界の中で、どこの誰かわからない人とで会い続け、何がおこるかわからないことには人々は耐えられない。だからこのようなリスクを低減するために、「社会」がある。それは、国による法という
![なぜ「信頼」は裏切られ続けるのか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/087eef42d861b4f46c9fd847f24d122f30d174d6/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fcdn-ak.d.st-hatena.com%2Fdiary%2Fpikarrr%2F2006-01-27.jpg)