ブックマーク / ikusa-zukan.com (8)

  • 一言坂の戦いとは?家康、武田軍の動きを読めず。三方ヶ原の戦い前哨戦をわかりやすく解説! | 戦の図鑑

    「一言坂の戦い」は、「西上作戦」で三河国へ攻め込んだ武田信玄と、それを迎え撃つ徳川家康の間で起こった戦。 家康の予期しないタイミングで開戦したため、家康は撤退を即決。 多忠勝の奮戦で撤退に成功するも、信玄に二俣城を取られる結果となりました。 一言坂の戦いまで 西上作戦 武田信玄は「駿河侵攻」で同盟相手の今川家を裏切ったことにより、最終的に北条家と徳川家の2家を敵に回します。 ikusa-zukan.com その後、当主の北条氏康が病死すると武田家と北条家は再び同盟を締結(甲相同盟)。 武田信玄 背後からの危険が無くなったことだし、徳川家を攻めるか 徳川家の討伐を始めることになりました。 重要拠点、二俣城の危機 この「西上作戦」と呼ばれる作戦を始動させた信玄は、総勢30000の軍を 山県昌景隊…三河国へ侵攻 秋山虎繁隊…山県隊と共に三河国へ侵攻(その後美濃で上村合戦を起こす) 武田信玄

    一言坂の戦いとは?家康、武田軍の動きを読めず。三方ヶ原の戦い前哨戦をわかりやすく解説! | 戦の図鑑
  • 志賀の陣とは?信長、敵に四方を囲まれる!織田家による四面楚歌の戦いをわかりやすく解説! | 戦の図鑑

    「志賀の陣」は、摂津国へ攻めに行った織田信長の隙をつき、浅井長政と朝倉義景が京を狙い挙兵した戦い。 この戦いではその後、反織田勢力が次々と便乗して挙兵。 信長は多くの敵に囲まれピンチを迎えますが、最終的には講和に終わります。 志賀の陣まで 金ヶ崎の戦い 時は1568年、織田信長は足利義昭を担いで上洛戦を開始、義昭を将軍の座につけます。 その功績により室町幕府では、信長が大きな影響力を持つように。 そして信長は 織田信長 上洛せよ ……(信長の命令には従いたくない) 朝倉義景 と朝倉義景が命令に従わないことを大義名分に、朝倉家攻めを始めます。 そして信長と義景の間で「金ヶ崎の退き口」(金ヶ崎の戦い)と呼ばれた戦いが起こると、織田軍は序盤は優勢に戦いを進めます。 しかし、信長の同盟相手で信長の妹であるお市の方を娶っていた浅井長政が 浅井長政 古くからの盟友である朝倉家に敵対はできない と信長を

    志賀の陣とは?信長、敵に四方を囲まれる!織田家による四面楚歌の戦いをわかりやすく解説! | 戦の図鑑
  • 金ヶ崎の退き口(金ヶ崎の戦い)とは?信長、浅井長政に裏切られる!絶体絶命の撤退戦をわかりやすく解説! | 戦の図鑑

    「金ヶ崎の退き口」(金ヶ崎の戦い)は、朝倉家を攻めていた織田信長に浅井長政が裏切り、攻めてきたことで起こった戦。 この戦いで周囲を敵に囲まれた信長は、絶体絶命の大ピンチに陥ります。 しかし織田家臣の活躍により、信長はこの危機を脱することになりました。 金ヶ崎の退き口まで 命令を無視する朝倉義景 時は1568年、足利義昭を担いで上洛に成功した織田信長は、将軍の命令として 織田信長 上洛せよ と越前国を治める朝倉義景に要求します。 この要求をした理由には 織田信長 拠地の美濃国から京へ行く道中にある越前国は服従させなければ という信長の思惑があったとされています。 これに対し、歴史ある名家としてのプライドがあった義景は 朝倉義景 新興勢力の織田家には従いたくない と2度の信長による命令を拒否。 これにより信長は 織田信長 これで、将軍の命令に従わない朝倉家、を倒す口実ができた と同盟相手の徳

    金ヶ崎の退き口(金ヶ崎の戦い)とは?信長、浅井長政に裏切られる!絶体絶命の撤退戦をわかりやすく解説! | 戦の図鑑
    sakutamatengo
    sakutamatengo 2020/12/08
    浅井長政が父親と袂を分かてば良かったのにと、無理を承知で思います。朝倉家は命を懸けて守るほどの御家ではなかったのが腹立たしい。滅びの美学は日本人の好む所ですが、長政の最期は見事だったと感涙に咽ぶばかり
  • 石山合戦とは?11年の間行われた史上最大の一向一揆をわかりやすく解説! | 戦の図鑑

    「石山合戦」は、勢力を著しく拡大していた織田信長に対し、願寺顕如が起こした一揆。 この一揆により「信長包囲網」はさらに強固なものとなり、信長は11年間もこの一揆に苦しめられることとなりました。 石山合戦まで 信長と義昭の決別 石山合戦 緒戦は織田軍勝利 長島一向一揆の発生 1度目の和議 熾烈を極める情報戦 越前一向一揆の発生 2つの一揆の鎮圧 2度目の和議 天王寺の戦い 第一次木津川口の戦い 紀州征伐 第二次木津川口の戦い 荒木村重の反乱と終戦 その後 石山合戦まで 信長と義昭の決別 時は1568年、織田信長は上洛戦を開始、足利義昭を将軍にすることに成功します。 しかし、その翌年 織田信長 天下統一したい と考える信長と 足利義昭 他の有力大名と共に幕府再興をしたい と考える義昭の間でい違いが発生すると、信長は「殿中御掟」という掟を義昭に提出。 義昭は 足利義昭 信長が私の行動を制限さ

    石山合戦とは?11年の間行われた史上最大の一向一揆をわかりやすく解説! | 戦の図鑑
    sakutamatengo
    sakutamatengo 2020/12/07
    毛利水軍として戦いましたが、村上水軍の活躍があればこそ第一次木津川口の戦いに勝利できたと思います。
  • 信貴山城の戦いとは?梟雄、松永家滅亡の戦いをわかりやすく解説!【図解】 | 戦の図鑑

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    信貴山城の戦いとは?梟雄、松永家滅亡の戦いをわかりやすく解説!【図解】 | 戦の図鑑
  • 稲葉山城の戦いとは?織田信長の大躍進!斎藤家滅亡の戦いをわかりやすく解説!【図解】 | 戦の図鑑

    「稲葉山城の戦い」は当時尾張国のみを支配下に置いていた織田信長と、かつての同盟相手だった斎藤家の当主、斎藤龍興との間に起こった戦。 この戦いにより、信長は龍興から美濃国を奪うことに成功。 全国への勢力拡大を加速させる結果となりました。 稲葉山城の戦いまで 同盟関係だった織田家と斎藤家 斎藤家の内乱で同盟決裂 新加納の戦い 家臣に拠地を乗っ取られる 河野島の戦い 稲葉山城の戦い 西美濃三人衆を寝返らせる 落ち延びる龍興 その後 稲葉山城の戦いまで 同盟関係だった織田家と斎藤家 今回「稲葉山城の戦い」で対戦することになる織田家と斎藤家ですが、両家は20年ほど前から同盟関係にありました。 「加納口の戦い」などで戦いを繰り広げ、犬猿の仲だった両者でしたが、信長の父の織田信秀と龍興の祖父の斎藤道三が

    稲葉山城の戦いとは?織田信長の大躍進!斎藤家滅亡の戦いをわかりやすく解説!【図解】 | 戦の図鑑
  • 臼井城の戦いとは?軍神、上杉謙信が敗北した戦いをわかりやすく解説!【図解】 | 戦の図鑑

    臼井城の戦いまで 関東地方の覇権争い 越後国を治める戦国大名の上杉謙信は、関東への勢力拡大を狙っていました。 そこで行われた戦いが「小田原城の戦い」。 ikusa-zukan.com この戦いで謙信は、関東地方のトップである北条家を拠地まで追い詰めました。 しかし謙信のライバル、武田家を味方につけた北条家が巻き返します。 その結果、足並みの乱れた上杉軍は撤退することを決め、謙信の関東侵略の夢は挫折に終わったのでした。 しかし、謙信は諦めません。 上杉方の拠点である松田城が、北条・武田連合軍に落とされたことを知った謙信は

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  • 永禄の変とは?足利義輝、死す!三好家による陰謀をわかりやすく解説!【図解】 | 戦の図鑑

    永禄の変まで 三好家の台頭 三好家はもともと細川家の分家の家臣、という立場で室町時代にはあまり力を持っていませんでした。 ですが、「永正の錯乱」と呼ばれる細川家の後継者争いに、三好家の主君の細川澄元が参加します。 ikusa-zukan.com それによって、三好家も細川家の内部争いに参加し、三好家は力をつけていきました。 また結果として、澄元の家系が細川家の家を継ぐことになったので、三好家は「分家の重臣」から「家の家臣」へと変貌を遂げたのです。 三好家vs細川家 ですが、「永正の錯乱」に勝利したあと、三好家に悲劇が起きます。 澄元の息子である細川晴元と、三好家当主の三好元長が対立してしまうのです。 仕える将軍を変えた晴元は、元長と意見が対立。 すると元長は、晴元の家臣を攻撃し始めたので

    永禄の変とは?足利義輝、死す!三好家による陰謀をわかりやすく解説!【図解】 | 戦の図鑑
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