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2015年6月10日のブックマーク (2件)

  • キリスト教の人に聞いてみたい:私の生存は神への反逆か

    追記2: 結局、私には、「私が助かったのは医師の努力の結果である」と「私が助かったのは神の意志である」は両立しないようにしか思えません。 医師の努力の結果であったのなら、努力次第で結果が変わっていた、ということですので、神の意志ではないはずです。 神の意志であるとするなら、医師が努力しようがしまいが、神の意志によって手術の結果が決まっていたということですので、医師の努力は関係ないはずです。 私には、後者の見解は、医師の努力や、医師の技術を向上させるために実験台になって死んでいった子らへの冒涜に聞こえます。受け入れられません。 とすると、私の取れる見解は、前者しかないのです。つまり、私の手術が成功したのは医師の努力ではあったが、神の意志ではなかった、と、考えるしかないのです。 追記: 私が手術で助かったのが神の意志であるなら、我々が参加した実験的手術には何の意味があったのでしょう。 私が手術

    キリスト教の人に聞いてみたい:私の生存は神への反逆か
  • 死に損ないに生まれるという事

    俺は元障害者だ。当は生きられない体で生まれてきたのに、実験的な手術で助かってしまった。同じ手術を受けて死んだ子がいる事も確認している。自分は、死んだ子の分も生きなければならない。死んだ子の代弁者として生きなければならない。健常者と我々、死に損ないの間には、決定的な違いがある。健常者は、ほっといても生きられる。我々は、そもそも手術なしでは生きられない体を持って生まれてきた。我々は、生命と言えるのだろうか?我々には生きている価値があるのか?俺は、幸い、見た目は健常者と同じ程度に回復しているので、健常者と同じように生活して、この10年、健常者の行動をつぶさに観察しながら、健常者が我々に死んで欲しいのか生きて欲しいのか、見極めようとしてきた。しかし、どうもはっきりしない。それどころか、俺を健常者と誤認して、俺の考え方が間違ってるとかいうやつも出てきた。俺が気にくわないなら、俺が生まれた時に手術を