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ブックマーク / fox-moon.hatenablog.com (406)

  • 令和二年の東京受胎 - 書痴の廻廊

    日発売のゲームソフト、『真・女神転生Ⅲ NOCTURNE HD REMASTER』を買って来た。 「リマスター」とあるからには、当然元々のソフトが存在している。 2003年にアトラスから発売されたPS2のタイトルで、その中古品が秋葉原の店頭に並んでいるのを幾度か見た。 が、購入はしなかった。 六千数百円という、法外な値札を付けられていた所為だった。二世代前の――もうすぐ三世代前になるが――機体のソフトがこれほどの高値を維持している現実に、驚きを禁じ得なかったものである。 ゲームを発売日に購入するのは、否、それどころかコンシューマーゲームに触れる自体、ずいぶんと久々なことである。 『ゴーストオブツシマ』を一通り終えてからというもの、ずっとフリーゲームに耽溺していた。 『UTOPIA』『SPIEGEL EI』『Follow me, please』『せとぎわメトロレギオン』『クチダケ』『ネノク

    令和二年の東京受胎 - 書痴の廻廊
  • パナマ運河と黄熱病 ―文明国の面目躍如― - 書痴の廻廊

    医療行為の最善が予防にあるということは、いまさら論を俟たないだろう。 孫子の兵法になぞらえるなら、戦わずして勝つの極意そのものである。 日でも早くからこのあたりの要諦に気がついていた人はいて、中でも高野六郎という医学博士は、その最も熱烈な信徒であった。 彼は文明というものを、極めて明快に定義していた。 病人の少ないことを指すのである。 文明国なるものは病気の少い国である。疾病予防の最も発達した国である。予防し得る病気を悉く予防し尽すといふことが文明の目標である。而して病気の予防が進歩し、健康が能く保たれる国民が今後の世界に於て優位を占めるであらうことは疑を容れない。(昭和六年発行『予防の出来る病気』2頁) もっとも十九世紀オーストリアで性病の研究に取り組んでいたクラフト・エビングなる医師は、 「文明化とは、梅毒化することである」 という、高野とはおそよ真逆の見解を嘆息と共に漏らしているが

    パナマ運河と黄熱病 ―文明国の面目躍如― - 書痴の廻廊
  • 医者の随筆 ―将棋・外套・原子爆弾― - 書痴の廻廊

    医者の随筆は面白い。 医者を(・)書いた文章ではなく、医者が(・)書いた文章である。 高田義一郎、式場隆三郎、正木不如丘、渡辺房吉、福島伴次――結構買ったが、今のところハズレを引いたことがない。どれもこれも、最後の一ページに至るまで、私の興味を捉えたまま放さなかった。 現在向かい合っている『研究室余燼』も、そんな「医者の随筆」の一冊である。 昭和十八年発行。 著者の名前は貝田勝美。 九州帝国大学で第三内科の教授職を務めていた人物だ。 カルテよろしく話の筋が明晰で、かといって無味乾燥というわけでもなく、厭味にならないユーモアがふんだんに散りばめられており、目を通している間中(あいだじゅう)、まず退屈とは無縁でいられる。将棋に熱中するあまり、敗れるや否や脳貧血を起こしてぶっ倒れた医学博士の話など、まるで『ハチワンダイバー』の世界だとたまげざるを得なかった。 貝田教授もこの博士――文中では「T博

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  • 続・米田実という男 ―マスター・オブ・アーツ― - 書痴の廻廊

    上京して暫くの米田実の生活というのは、まったく「苦学生」を絵に描いたようなものである。 朝はまだ星の残る早くから、新聞売りとして声を張り上げ駈け廻り、それを済ますと図書館に突撃、自学自習を開始する。 さてもめまぐるしい肉体労働と頭脳労働のサイクルだった。 似たような経歴の持ち主に、トーマス・アルバ・エジソンがいる。かの発明王も少年時代、自宅のそばに鉄路が敷かれたのを幸い、デトロイトで新聞を仕入れては地元の田舎――ポート・ヒューロンの街角で売り捌くという商売法を編み出して、結構稼ぎ、実験器具や薬品を買う資(もとで)としたそうである。 (Wikipediaより、少年時代のエジソン) 朝七時半の電車に乗って、夜九時半に帰ってきた。 むろん、ただ新聞を買うだけでこれほど手間取るはずもなく。デトロイトからポート・ヒューロンに向かう列車の数が、それだけ少なかったということだ。 手すきの時間が毎日九時

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  • 米田実という男 ―忘れ去るには惜しき者― - 書痴の廻廊

    前回、せっかく米田実に触れたのだ。 この人についてもう少しばかり掘り下げてみたい。 私はこれまで彼の著作に何冊か触れ、しかもその都度、得るところ甚だ大であった。半世紀以上も前に著されたであるというのに、その知識は鮮度を保ち、みずみずしい驚きを与えてくれた。 戦前に於ける名ジャーナリストを五人挙げろと言われたら、私は即座に米田実と杉村楚人冠に指を屈することだろう。 まあ、要するに好きなのである。ファンなのである。 そんな米田実の名前が歴史にすっかり埋没し――なにせ、Wikipediaに項目すら見当たらない――、思い出す者も稀というこの現状は痛惜に堪えぬものがある。 そうした想いが、私にこの稿を綴らせた。 米田実が呱々の声を上げたのは、明治十一年十二月十一日、福岡県久留米市の一角に於いてのことだった。 家は、士族の血統である。 旧幕時代は侍として久留米藩有馬家に仕えていたものであり、特に祖父

    米田実という男 ―忘れ去るには惜しき者― - 書痴の廻廊
  • 「ドルの国」との交際術 ―戦前の「アメリカ通」な男たち― - 書痴の廻廊

    訴訟大国アメリカといえど、これはなかなか珍しい例に属するのではあるまいか。 ロビイストが企業を相手に、法廷闘争を挑んだのである。 1929年8月24日のことだった。 この日、ウィリアム・B・シャラーという人物がにわかに世の表舞台に躍り出て、三つの大造船会社の名前を次々に挙げ、 「目下、これらの企業で建造している一万トン級の巡洋艦八隻の建造案を議会に可決させたのは、自分がさんざん骨を折って運動した結果であり、その運動は右造船会社の社長たちの連名で依頼されたものだった。にも拘らず、私は立派に仕事を果たしたというのに、彼らは未だ約束の報酬金を払おうとしない」 仰天すべき主張を展開、未払いの報酬257655ドルを耳揃えて出しやがれと訴えたのだ。 更にまた、シャラーは1927年ジュネーブに開かれた海軍軍縮会議を引き合いに出し、 「あの会議が何ら得るところなく決裂したのも、俺の暗中飛躍のおかげさ」 と

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  • 繁栄の条件 ―国際場裡の腹黒さ― - 書痴の廻廊

    来るべきものがついに来た。 大日帝国が帝政ロシアに国交断絶を突き付けたのだ。 もはや極東を舞台として一大戦火が巻き起こるのは誰の眼にも不可避であった。風雲急を告げるこの秋(とき)、もしも彼らに発声機能があったなら、 「俺たちはどうなるんだ」 と、腸を引き絞るようにして叫んだろう。 二隻の軍艦、日進・春日のことである。 (Wikipediaより、日進) いや、船というのは女性名詞(She)で扱うのが一般的らしいから、彼女たちと呼ぶべきか? まあいい。とまれかくまれ、この二隻は新造艦。アルゼンチンの注文を受け、イタリアのアルサンド社が建造していたものであり、それを大日帝国が横から買い取った形であった。 買ったはいいが、さて、国交が断絶されたこの時局下で、彼女たちをどうやって、生まれ故郷の地中海から遠い遠い極東の海まで安全に送り届けたものか? 要路一同、大いに悩まざるを得なかった。 みすみす

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  • ジョン・ラスキンのシェイクスピア評 - 書痴の廻廊

    セシル・ローズの恩師に当たるジョン・ラスキンは、あるときシェイクスピアの作品群を批評して、 「碌な男がいない。この中にはただの一人も、大丈夫がいないのだ」 と吐き捨てた。 (Wikipediaより、ジョン・ラスキン) ラスキンの眼光にかかれば、たとえばロミオなど短絡的でこらえ性のない青二才、ヴェニスの商人は逆境に出くわして為すことを知らず、ハムレットに至っては、夢と現実を混同しがちな空想的人物に過ぎないという。 なにやら『賭博黙示録カイジ』冒頭の、利根川幸雄の演説を彷彿とするのは気のせいだろうか? ラスキンの舌鋒、なおも止まない。 「反対に優れているのは女性である。シェイクスピアのどの戯曲をのぞいても、完璧な婦人の登場しないものはない」 躊躇を交えず、彼の作品を解剖している。 物語の波瀾・破局・大事件は常に男の失策か、その愚鈍ぶりを根源としたものであり、これを救い上げて収拾するのは婦人の智

    ジョン・ラスキンのシェイクスピア評 - 書痴の廻廊
  • 赤羽橋のいまむかし ―芝東照宮参詣余録― - 書痴の廻廊

    芝東照宮へ参詣したあと。折角ここまで来たのだからと、しばし四辺(あたり)を散歩した。 で、芝公園の隅の芝生に見出したのがコレである。 横の看板には、「災害用マンホールトイレ」と記されていた。非常の際には蓋を開いて便座を据え、テントか何かで囲いを付ければすぐにトイレとして機能するとか。 災害によって電気・水道・ガス等のライフラインが麻痺せしめられ、水洗トイレが流れなくなり、屎尿処理に大苦労した過去の惨憺たる経験から発想されたものらしい。尾籠なれど、人間にとって紛れもなく一大事である以上、こういう備えは頼もしかろう。 そこでふと、思い出した。そういえばこの近くの赤羽橋は昭和の昔、東京市内最大の人肥集積所として機能していたということを。―― 浅草厩橋下の配船所から送り状を受取った肥船が市内の水道橋、万世橋、駒形橋、赤羽橋などの橋のたもとへ、積み取りに行く。赤羽橋は市内最大の肥料集合所で、念入なの

    赤羽橋のいまむかし ―芝東照宮参詣余録― - 書痴の廻廊
  • 芝東照宮参詣記 - 書痴の廻廊

    先日、芝東照宮へ参詣(おまいり)に行った。 東京都港区は芝公園の一角に在る、四大東照宮の一角だ。残る三社は、上野東照宮、久能山東照宮、日光東照宮。 そのことについて書こうと思う。 東照大権現神君徳川家康公の御霊を祭るこのお宮には、来もっと早く来てよかった。 具体的には昨年度、東京タワーを上下したあの時に、である。 両施設は目と鼻の先といっていいほど至近に位置し、なんとなればタワーの展望台からその屋根が、ありありと見えていたやも知れないからだ。それが事前のリサーチ不足で、みすみす機会を逃してしまった。返す返すも不覚である。 それで今回、漸く訪れる機会を得た。 コンクリ製の鳥居をくぐる。 むかしは筑前国福岡藩主黒田忠之の寄進した立派な鳥居があったそうだが、惜しくも先の戦争で焼失している。 境内はさして広くない。が、森閑として居心地自体は頗るよろしい。 右手には御神木たる大銀杏が。 三代将軍家

    芝東照宮参詣記 - 書痴の廻廊
  • 大切小切ものがたり・後編 ―その始末― - 書痴の廻廊

    慈悲に縋ろうとした。 だが拒絶された。 ならば力に訴えて、無理矢理にでも然諾を引き出すより他にない。 (先祖代々、我らはそうして生きて来たのだ) それを想うと、血が酒に変わるほどのくるめきを感じる。 甘美な陶酔というものだろう。この陶酔は、家を保つことが最大の徳行とされた時代の人間でなくばわからない。 古めかしい言い方を敢えてするなら、小我を去って大我に至る心境である。己が背後に連綿と続く血脈を自覚し、そこにひたひたを身をすり寄せてゆく場合、彼らは決まって無上の悦びに包まれるのだ。 この先、甲府の街中で、たとえどのような乱暴狼藉を働こうと、それは狭矮な自分一個の欲からではなく、祖霊の集合意識が然らしむるものであり、直ちに「義挙」として純化され祭り上げられる予感があった。 各々がそういう意識でいる。 げにおそるべき進軍だった。 左様、進軍。 「軍」の字を使わざるを得ぬほどに、都合六千からなる

    大切小切ものがたり・後編 ―その始末― - 書痴の廻廊
  • 大切小切ものがたり・中編 ―新旧衝突― - 書痴の廻廊

    大小切という「信玄公以来の祖法」消滅の危機に直面し、ただ身を寄せ合い、コマッタコマッタと首をかしげているだけが甲州人の能にあらず。 一張羅に袖を通して、えっちらおっちら峠を越えて、県庁へと馳せ参じ、陳情の声を上げる「有志」がそこかしこから出現(あらわ)れた。 が、効がなかった。 このあたり、再び水上文淵翁の記録を参照すると、 茲に東山梨郡松里村、旧小屋敷の長百姓に小澤留兵衛なるものあり、同郡の諏訪村旧隼の倉田利作同郡岡部村旧松の嶋田富十郎と相謀り、八月八日甲府へ出張、武田氏の祖法を存置せしめられんことを歎願せしも、県庁聞かざるを以て、十日各村の者出張して再び歎願せんとす(昭和五年発行『維新農民蜂起譚』242頁) 末尾にある十日の歎願。 ほとんど村を空にする勢いで展開されたこの運動も、結局は不首尾に終わったらしい。 ――県庁の初期対応がよくなかった。如何にも相手を「無知蒙昧のどん百姓め」と

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  • 大切小切ものがたり・前編 ―武田信玄以来の祖法― - 書痴の廻廊

    2022年4月より、ハーメルン様にも掲載させていただいております。 いやしくも山梨県民を、甲州人を名乗るなら、大小切騒動にまつわる知識はごく当然なたしなみ(・・・・)として具えておかねばならないだろう。 現に私は義務教育でおそわった。 忘れもしない中学生の頃のこと。当時の私の日史教諭は教科書をありがたがらない性格で、しばしば授業を脱線させては豪傑たちのあられもない私生活、法律の意外な運用実態等々、いわゆる「歴史の裏話」談議に熱を上げる人だった。 日教組の影響極めて強い山梨県の教師としては、めだって異例な人だったろう。 受験にはまるで役に立たない知識であるため、級友の中にはあからさまに辟易し、「いやな先公に当たってしまった」と不平がる輩も少なくなかった。が、私にとっては素直に恩師と尊敬できる、数少ない一人である。 私の日史に対する興味の素養は、このときに培われた部分が確かに大きい。 だ

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  • 浜名湖小話 ―「ゆるキャン△」二期に向けての予習― - 書痴の廻廊

    日に日に機会が増えている。 『ゆるキャン△』アニメ二期の広告を目にする機会が、だ。 漫画で予習は済んでいる。一期が思い切りツボに嵌ったいきがかり上、手を出さずにはいられなかった。アニメから原作にポロロッカする、典型的な例であろう。 就中、五巻に収録されている、浜名湖の鰻をかっ喰らうあのエピソード。あれの映像化が待ち遠しくて仕方ない。一日千秋とはこのことか。 ここはひとつ、「浜名湖の鰻」にまつわる小話でもして、待つ身のじれったさを紛らわしてみるとしよう。 鰻が浜名湖の名物となった契機(きっかけ)は、だいたい明治三十年ごろ、愛知へ下る汽車の窓から一人の男がこの汽水湖を見下ろして、 ――これはよき土地。 養殖をやるには最適だろう、と直感したことによる。 一目惚れといっていい。 この男、姓は服部、名は倉次郎。 東京所深川あたりで長いこと――それはもう、御一新の以前から――鰻やすっぽん、水産物の養

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  • 最期の言葉・外伝 ―「夢」を含む辞世撰集― - 書痴の廻廊

    辞世の句を刻むとき、「夢」の一字を挿みたがる手合いは多い。 なんといっても、天下人からしてそうである。豊臣秀吉が 露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢 と吟じれば、徳川家康、 うれしやと二度(ふたたび)さめてひとねむり 浮世の夢は暁の空 といった具合だ。 それにしても、この対照の妙ときたらどうであろう。 陽気そのものの如くであった生前の燥(はしゃ)ぎっぷりは何処へやら、秀吉の句には諦観と無常感とがあからさまに付き纏い、彼がどれほどおのれの死んだ後のこと――我が子秀頼の将来を不安がっていたものか、一目で判別がついてしまう。 実に豊臣秀吉は、莫大な未練を抱えて逝った。ともすればその重量で、三途の川の渡し船も沈みかねないというほどに。 華やかな生涯を送ってきただけ、その辞世の悲痛さが、一層際立って印象されるのではなかろうか。 徳川家康は、まさにその逆。 およそ人間に想像し得る辛

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  • 最期の言葉 ―「辞世の句」私的撰集― - 書痴の廻廊

    天保七年というから、ちょうど「天保の大飢饉」の只中である。信濃国水内郡丹波村の近郊で、行き倒れた男の死体が見つかった。 ざっと見歳は五十内外、持ち物は杖と笠のみであって、そのうち杖には紙片が結わえられており、開くと次の一首が認められていたという。 死水は澤山なるぞ草の露 江戸時代末期に出版された随筆集、『宮川舎漫筆』に収録されたエピソードである。 著者たる宮川政運は、この行き倒れを「哀れにもいとやさし」と評価した。 こういうのに触れるたび、人間、死に際は美しく飾るべきだとしみじみ思う。 来絶対的な恐怖の対象であるはずの「死」を前にして、なおも浩然たる意気を崩さず、颯々と一句詠ってみせる。所詮は虚勢に過ぎないが、その痩せ我慢の姿こそ、私の眼には何より尊く映るのだ。 畢竟世に謳われる精神美など、虚飾の美しさ以外のなにものでもないだろう。 魂の緒がぷつりと切られる最後の最後、一刹那の間際まで見

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  • シベリアの夢、薄れぬ記憶 - 書痴の廻廊

    「シマッタ、ここはシベリアだ。俺は確かに日へ帰っていたはずなのに、またシベリアに来ている。何とかして日に帰らねば……遥か向うを見ると収容所が点在している。そして多くの日人がこちらを見ている。戦後三〇余年、日は随分と変った。このことをあの戦友たちに伝えよう、それから何とかして日に帰ることを考えよう、と思いながら収容所の中に入って行く……」 そして目が覚める。引揚げ三〇余年を経た今日でもこのような夢をよく見る。こちらを見ている多くの日人たち、それは凍土に白骨と化した戦友たちの霊魂かも知れない。(『シベリア抑留体験記』281~282頁) シベリア抑留は被害者の精神・肉体両面に、果てしなく深い傷を残した。 帰国から数十年を経てもなお、眠るたびラーゲリに逆戻りしている己の姿を発見し、監視塔を睨め上げながら日に帰りたいと希う。そんな報告が数多い。 無茶な労働の所為であろうか、骨格に著しい

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  • 親愛なる同志スターリンへ ―ラーゲリから感謝の寄せ書き― - 書痴の廻廊

    「民主化教育」に名を借りた洗脳事業を抜かしては、シベリア抑留というものがまったく分からなくなってしまう。 捕虜にされた日人将兵57万。 ソビエト連邦は単に彼らを都合のいい労働力としてこき使うにとどまらず、この中から一人でも多くの「革命戦士」を作り出そうと努力した。 躍起になったといっていい。単純な暴力は勿論のこと、「帰国」をエサに仲間を売らせ、相互不信の種を蒔き、あの手この手で日軍の統制を布でも引き裂くようにズタズタにした。 文字通り、何でもしたのだ、共産主義者は。 そのおどろおどろしい実態については、「隼の特攻」でわずかに触れた、第十八野戦兵器廠チチハル部詰め軍医、細川親文氏の報告が最も明快で理解しやすい。 抑留者の中には我々のように三〇歳をとっくに過ぎてしまった中年者も多いが、現役で入隊した二〇歳そこそこの兵隊もいる。これらの若い連中がいつの間にか収容所から消えてしまった。どこへ

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  • 戦勝国民の言行録 - 書痴の廻廊

    「支那は日と一〇年戦い、米国でさえ五年戦った。ソ連を見よ。宣戦布告からわずか三日で日は降伏した。ソ連軍は世界一強く、ソ連人は世界で一番偉い人種である」(『シベリア抑留体験記』194頁) 奥地のとある収容所にて、赤軍兵士が抑留者たちに言い放った一言だ。 傲然と肩を聳やかし、胸張り通すそのありさまは、彼が気で、心の底から自分自身の発言を信じきっているのだと、否が応にも察せられるものだった。 奇妙としかいいようがない。 戦争末期の、あの火事場泥棒的行動を、よくまあここまで誇らしげに語れるものだ。 恥知らずは生き易そうで羨ましい。 イルクーツク州、タイシェット近郊の収容所――近郊といっても、ゆうに50キロは離れているが――にぶち込まれていた萩野政門という人も、あるとき赤軍将校の口から以下の如き演説を浴びせかけられて、思わず耳を疑っている。 「この地域に来ている者は、ソ連軍が満洲に進入した時の

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  • 夢路紀行抄 ―シタタカ毒虫― - 書痴の廻廊

    夢を見た。 有名人の夢である。 始まりは、確かショッピングモールの通路であった。 全体的に黄色みがかった配色で、ただもうそこに居るだけで、細胞が踊り出すような、陽気な気分になってくる。 建築の妙と言うべきだろう。 幅も広い。重戦車でも悠々走行できそうな、贅沢な空間の使い方だ。 そこをずっと歩いていると、やがて日庭園にぶち当たった。 山水を引き、敷石は濡れ、風が吹けば潮騒の如く梢が揺れて快い。客の心を和ます努力が憎いばかりに費やされたその場所は、しかし私が訪れたとき、蕭殺たる気に隙間もなく満たされて、とても「癒し」どころの騒ぎでなかった。 さもありなん。奥のこぢんまりした庵の近く、石燈籠の足下で男が死体になっている。 毛利小五郎であった。 江戸川コナンの隠れ蓑としてしょっちゅう麻酔針を撃ち込まれ、「眠り」の渾名まで頂戴したその彼が、顔面を朱に染め永久(とわ)の眠りに就いている。 死体のわき

    夢路紀行抄 ―シタタカ毒虫― - 書痴の廻廊