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ブックマーク / yyai.hatenablog.com (6)

  • ⑦息抜きコラム/津軽ディープスポット - 道南民俗学研究会

    JR木造駅正面にあしらわれた遮光器土偶 JR車両が通過すると目が発光する仕組み。遮光器とは北方民族が雪面の照り返しから目を保護する木製または革製の眼鏡である。潜水士や宇宙飛行士の印象を伴う外見でもあり荒唐無稽と言うべき様々な憶測もある。インパクトあるデザイン感覚である。 古代人が土偶を制作していた技術は今日では仏像やアニメーション、ゆるキャラなどの制作に継承されているのかもしれない。 高山稲荷神社の参道に連なる鳥居どこまでも続くように見える鳥居は信徒から神恩感謝の徴(しるし)として奉納されたものである。鳥居自体は俗界と聖域を分ける結界であるが、大きさや数により、祭神の威光が示されているようである。 生活と信仰の距離が近いと見て取ることもでき、この数の圧に気おされる感覚がある。 鶴の舞橋と奥に鎮座する岩木山橋とは此岸と彼岸を結ぶもので、我が国の象徴性世界においてきわめて宗教的な意味を有する。

    ⑦息抜きコラム/津軽ディープスポット - 道南民俗学研究会
  • 不健全な上下関係の見直し - シャーマニズム現代

  • いにしえ人の言葉〇自燈明、法燈明 - 道南民俗学研究会

    自燈明は「他者ではなく自己を拠り所とすること」。神のお告げを述べている人や、年長者にも盲従せずに自己を拠り所とせよと言っているのである。明快ではあるが局面によっては、組織や権力者に従わなければならないこともある世の中で、実践は意味程は簡単ではない。 法燈明は難解である。法とは何か、法律、科学的法則、法理。ここでは、それらに通じる概念として「道理」とまず解釈してみたい。道理たることを標とせよ。いかにも彼、釈迦の言いそうなことだと思う。ちなみに、法とは仏教そのものを指すという解釈もあるが客観性に欠けている。今日の仏教そのものが道理に反しているということだって当然考えられる。神という概念そのものを否定したところから思索を始めた彼は質的には批判精神に長けた人であり、既存のものと調和しながら「後はよしなに」とかお茶を濁すことを嫌う人物だったと私は考えている。 法とは何か。まさに、この解釈の違いから

    いにしえ人の言葉〇自燈明、法燈明 - 道南民俗学研究会
  • 平和ボケという言葉に対して思うこと - 道南民俗学研究会

    終戦から75年、2020年の8月15日という日が過ぎ去ろうとしている。私が購読させてもらっているブロガーさんで、終戦記念日に寄せてのメッセージを発信している方が何人かいらしたため刺激を受け、今年の思うところを記録に留めておくことにする。即興性の高い記事のため、いつにも増して不足が多い点はご容赦願いたい。 私は政治思想的には右でも左でもない、そんな簡単に選り分けてもらわなくて結構だと考えている。現実的に安全保障策を考えるという点では保守的に近いが、さればと言って保守と言われている方々とは心理的な距離感がありすぎる。私の理解力が劣るということもあるが、もう少し理性的な言動をなさってはどうかと意見を申し上げたくなる諸先生がいる。個々の方への質疑は、いずれ当人に直接行うことを期す。 人も自覚をされているのだが、理想論に走る左派的な方(例えば田島陽子女史など)を、それは現実的ではないですと指摘する

    平和ボケという言葉に対して思うこと - 道南民俗学研究会
  • 命と向き合うことを放棄してはならない②露と落ち、露と消えにし - 道南民俗学研究会

    若い頃、好奇心から一晩中森の中を彷徨ったことがある。それはヒグマや蛇の出る森で、森の奥を東に突っ切れば川に着くはずであり、その川を下流に向かえば国道に出るだろうという思い付きを実証したかった。今、冷静に考えれば、その川に辿り着くまでにも川は数あるので、そもそもそこに辿り着くことは不可能だったと思われる。 家を出たのは午後22時すぎ、森の入り口に着いたのが23時前ころ。森の入り口には寝静まった一軒家があり犬小屋が見えた。さて、その日は月夜だった。森に入ると暗くはないが、東に行くも何も東に続きそうな道がない。引き返すことはできるが、そんなことをするくらいなら前進あるのみとばかりに、誘われるように森の奥深く獣道に分け入った。誘われる?いや、誰かに呼ばれているのではない。 その後、道なき孤独の森でどうなったか。行方不明と言う結果も十分にありえただろう。気が付くと犬がすぐ私の後ろにいた。私が戸惑い

    命と向き合うことを放棄してはならない②露と落ち、露と消えにし - 道南民俗学研究会
  • 命への問いかけ①安楽死を構成しうる4要件 - 道南民俗学研究会

    この七月は「命の選別」や「安楽死」というフレーズなど生きることの意味や、命について考えさせられることが何度かあった。特に安楽死については、巧妙に社会が話題にすることを避けているのではないかと知人から指摘を受けた。私だって、そういうテーマを自ら積極的に扱おうとは思わない。素人民俗学者のブログ記事で安楽死を書いても一体だれが読むのかという認識がある。 しかし避けていると言われ、それでも意図的に避けるなら余りに薄っぺらく、がっぷりと組むことなどできずとも向き合うことで得られるものがあると感じたので、まずは周辺について考えてみたい。誰かに書くことを依頼するというより、自分で書いてみようという反発心から筆を執る。 ウィキペディアで検索すると「東海大学安楽死事件」の項目中に医師による積極的安楽死として許容されるための4要件として、 1.患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること 2.患者は死が

    命への問いかけ①安楽死を構成しうる4要件 - 道南民俗学研究会
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