自分を語ることは一番たやすいようでいて、一番むずかしい。リンゴや公園や北条泰時や集積回路を語るときは自分の位置が対象から離れた外にいるのでちょっと安閑としていられるが、自分を語ろうとすると、そういう自分を語っている自分の位置が言葉のたびに動いてしまうから、そこがむずかしい。哲学はそのむずかしさに挑む。そのため多くの哲学は自分の語り方を問うことに始まり、ついついそこに終始する。 西田幾多郎は自分の生涯をふりかえって、こう言った。「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した。その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである」。 なかなか、こうは言えない。こうは言えないだけでなく、西田は自分を語るにあたってつねに他に席を譲るようにした。自分への問いを少なめにした。それでいてその内なるものを多様に語ってきた。少なめであるこ