並び順

ブックマーク数

期間指定

  • から
  • まで

1 - 5 件 / 5件

新着順 人気順

方法的懐疑 意味の検索結果1 - 5 件 / 5件

  • 「いま」と出会い直すための精神分析講義 - 「私」が「私」でなくなるとき――ラカンと哲学 | ウェブマガジン「あき地」

    ドキュメンタリー・フィルムを観て、そこに証言されている「現実」に圧倒されてしまうという経験は、誰の身にも覚えがあるものだろう。私ではない誰かが生きた「現実」のなかに自分の一部を連れ去られたような、どこか危ういあの感覚には、たんに「考えさせられた」ということには尽きない何かがある。それは思考や認識よりも、むしろ言葉になる以前の身体感覚やざわざわとした感情の蠢きのほうに近いといえるかもしれない。 では、思考するということがこうした曖昧な感覚やと危うさときっぱり切り離されてあるのかといえば、決してそうではない。むしろ、ときとして日常の平穏の外に私たちを連れ出してしまう可能性にこそ、じつは思考の核心があるのではないだろうか。そもそも、日々をのんべんだらりとやり過ごしているだけの人が、何かを切実に考えることなど果たしてできるだろうか。 このことをよく教えてくれるのは、17世紀の哲学者デカルトである。

      「いま」と出会い直すための精神分析講義 - 「私」が「私」でなくなるとき――ラカンと哲学 | ウェブマガジン「あき地」
    • 爆笑問題の太田光の発言「白か黒かで語れる問題じゃない」というのは道徳的相対主義という無責任なルサンチマンである - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸

      2022年10月2日のサンデージャポン。 それを観ているとき、俺は「はぁ?何言ってんの!」と思って、思わずツイッターに感情をぶつけた。 #サンデージャポン 太田光、旧統一教会の問題を「白か黒かで語れる問題じゃない」と言うことは、宗教被害・宗教2世信者の宗教虐待を有耶無耶にすることと同じだろーが!そこに被害者がいるならデーブスペクターが言うように白か黒で語れる問題だ。杉村太蔵も、相対主義は無責任・無関心と同じだよ…。 — 逆寅次郎 (@gyakutorajiro) October 9, 2022 何人かいいねしてくれた。 だから俺の意見もあながち、偏ってはいないと思いたい。 この太田光や杉村太蔵の考え方を、いわゆる「相対主義」という。 相対主義とは何か。 それは岡田斗司夫のこの動画がわかりやすい。 9分過ぎ~の箇所で、岡田斗司夫は言っている。 相対主義は近代文明社会の産物ではなく、ギリシャ時

        爆笑問題の太田光の発言「白か黒かで語れる問題じゃない」というのは道徳的相対主義という無責任なルサンチマンである - 逆寅次郎のルサンチマンの呼吸
      • イギリス経験論とイミュータブルデータモデル - Qiita

        チームの Advent Calendar 用 第二弾です。(第一弾) **************** 人間は知覚の束である by デイビッド・ヒューム エンティティはイベントの束である by N氏(職場のエライ人)1 **************** 2人の偉人の言葉に相通じるところを感じ,考察してみることにしました。 17世紀から18世紀,哲学の一分野である認識論において,イギリスを中心とする経験主義的な「イギリス経験論」とヨーロッパ大陸(フランス,ドイツ,オランダなど)を中心とする合理主義(理性主義)的な「大陸合理論」による論争が続けられていました。2 source @startuml "近世哲学" package "近世哲学" as modern_philosophy { package "大陸合理論" as rationalism { } package "イギリス経験論" as

          イギリス経験論とイミュータブルデータモデル - Qiita
        • 赤い薬と青い薬 - Wikipedia

          赤と青の薬(薬)は、1999年の映画『マトリックス 』に使われた印象的なモチーフである。 赤い薬と青い薬(あかいくすりとあおいくすり、英: Red pill and blue pill)とは、安定した生活を失ったり人生が根底から覆るとしても真実を知りたいのか、満ち足りた、しかしなにも知らない状態であり続けたいかの二択を指して言う言葉である。1999年の映画『マトリックス』に由来していて、前者が赤い薬、後者が青い薬を飲むことに比せられている。レッドピル、ブルーピルともいう。 背景[編集] 映画『マトリックス』の序盤で、主人公であるネオは、反体制派のリーダーであるモーフィアスから、赤い薬と青い薬のどちらを飲むかを迫られる。モーフィアスはこう説明する。「青い薬を飲めば… 物語はそこで終わりだ。自分のベッドの上で目覚めて、そこからは自分が信じたいものを信じればいい。赤い薬を飲めば… 不思議の国にと

            赤い薬と青い薬 - Wikipedia
          • 「我思う、ゆえに我あり」はいかにして綴られたか(伊藤玲阿奈)|翻訳書ときどき洋書

            指揮者・伊藤玲阿奈「ニューヨークの書斎から」第3回 “Discours de la Méthode” by René Descartes 『方法序説』(岩波文庫) 著:ルネ・デカルト 訳:谷川多佳子 岩波書店 1997年7月時は16~17世紀、日本では戦国時代から江戸時代初期にかけてのことである。 1510年(論文出版は1543年)にコペルニクスが地動説を初めて公にしてからというもの、ヨーロッパ人がこの世界の仕組みについて再考を迫られたのは改めて説明するまでもないが、それは知識を獲得するという行為、すなわち学問の方法においても同じであった。 それまでは天動説によって、神による天地創造の過程で最後に創られた人間は、他のあらゆる被創造物の魂よりも上位であり、かつ宇宙の中心である地球に存在することから、特権的な精神と位置をもって世界を見渡せるものとされていた。つまり、人間がこの世界に関する客観的

              「我思う、ゆえに我あり」はいかにして綴られたか(伊藤玲阿奈)|翻訳書ときどき洋書
            1