ドキュメンタリー・フィルムを観て、そこに証言されている「現実」に圧倒されてしまうという経験は、誰の身にも覚えがあるものだろう。私ではない誰かが生きた「現実」のなかに自分の一部を連れ去られたような、どこか危ういあの感覚には、たんに「考えさせられた」ということには尽きない何かがある。それは思考や認識よりも、むしろ言葉になる以前の身体感覚やざわざわとした感情の蠢きのほうに近いといえるかもしれない。 では、思考するということがこうした曖昧な感覚やと危うさときっぱり切り離されてあるのかといえば、決してそうではない。むしろ、ときとして日常の平穏の外に私たちを連れ出してしまう可能性にこそ、じつは思考の核心があるのではないだろうか。そもそも、日々をのんべんだらりとやり過ごしているだけの人が、何かを切実に考えることなど果たしてできるだろうか。 このことをよく教えてくれるのは、17世紀の哲学者デカルトである。