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松平春嶽 坂本龍馬の検索結果1 - 11 件 / 11件

  • 勝海舟、西郷隆盛と歩んだちょい悪親父の[真実]

    犬に金玉を噛まれるも驚異の生命力で生還 勝海舟は、1823年、文政6年、江戸本所亀沢町で旗本勝小吉(かつこきち)の長男として生まれます。幼名は麟太郎(りんたろう)、勝家は徳川家康が天下を獲る前から仕えた譜代の旗本ですが、禄高は41石に過ぎず、役職にもつけない貧乏ぶりで父である小吉は、商人の用心棒や刀剣の目利きなど、下町の顔役として細々と生計を立てていました。 海舟は少年期から聡明で、小吉は非常な期待をかけていましたが、9歳の頃に道で野犬に金玉を噛まれ、生死の境を彷徨う経験をしました。この時、父の小吉は献身的に海舟を看病し、その甲斐もあり70日程では回復しています。海舟は幼少期の体験がトラウマになり犬は大小関係なく生涯嫌いでした。 一時期の海舟は剣術に打ち込み、島田虎之助(しまだとらのすけ)に師事して腕は直心影流(じきしんかげりゅう)の免許皆伝で同時に禅に傾倒して心胆を練り上げています。ただ

      勝海舟、西郷隆盛と歩んだちょい悪親父の[真実]
    • 坂本龍馬は武田鉄矢に怒られるほどの[人物]だったのか?

      天保6年土佐の富裕な郷士坂本家に生まれる 坂本龍馬は1836年の11月15日、土佐の郷士(ごうし)坂本八平(さかもとはちへい)の次男として生まれます。長男は権平、姉は千鶴(ちづる)、栄(えい)、乙女(おとめ)がいて龍馬は末っ子でした。元々、坂本家は商家で質屋、造り酒屋、呉服商を営み郷士株を買って侍身分になりました。竜馬というのは通商で諱(いみな)は直陰(なおかげ)、後に直柔(なおなり)と改めています。 漫画などでは、寝小便垂れのアホの子として描かれますが、寝小便については、当人が手紙で認めているものの、具体的なアホエピソードはないようです。ただ、実母が龍馬10歳の頃に病死しており、その精神的ショックで寝小便や、学問に身が入らないという事はあったかも知れません。主な教育は姉の乙女が引き受け龍馬を鍛えましたが、実は龍馬の視野を広めたのは漫画にはあまり出ない、父八平の後妻、伊与の前夫の実家、川島

        坂本龍馬は武田鉄矢に怒られるほどの[人物]だったのか?
      • 鞆の浦 ぐるり観光 - すまりんの てくてく ふたり旅

        すまきとすまりんがこのたび訪れた鞆の浦(とものうら)は 広島県福山市の港町です 鞆の浦は 瀬戸内海のほぼ真ん中にあり この辺りで東西の潮の流れが変わることから 瀬戸内海を横断する船はここで一旦 潮の流れが変わるのを待ちました ということで 鞆の浦は「潮待ち港」として知られ 江戸時代を偲ばせる建物がたくさんあります そういえば「崖の上のポニョ」の舞台になったとも言われていますね(^_-)-☆ 宮﨑駿監督が鞆の浦の古民家に滞在中「崖の上のポニョ」の案を練られたとのこと… 今回は小さな宝石箱のような鞆の浦の町を巡ってみたいと思います 観光の順番が前後しますが この順にご紹介します ❶東洋一の景色の寺 福禅寺の対潮楼 ❷「平成いろは丸」で仙酔島へ ❸活魚料理 鯛めし 千とせ ❹龍馬の隠れ家  桝屋清右衛門宅 ❺鞆の浦港と「汐ノ音」の映えスイーツ ❻いろは丸記念館 ❼鞆城 と ささやき橋 ❽医王寺

          鞆の浦 ぐるり観光 - すまりんの てくてく ふたり旅
        • 山内容堂と坂本龍馬、理想の上司と部下の[真実]

          幕末では坂本龍馬(さかもとりょうま)が一番人気のある歴史上の人物の一人で、これまでに何回か大河ドラマになっています。坂本龍馬は土佐藩の元藩士で、土佐藩の藩主は山内容堂(やまのうちようどう)です。山内容堂も雄藩として台頭した土佐藩の藩主で、山内容堂は伊達宗城(だてむねなり)・島津斉彬(しまづなりあきら)・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)ら四賢候(しけんこう)として呼ばれるようになりました。 この記事では坂本龍馬と土佐藩の藩主である山内容堂との関係、龍馬の船中八策(せんちゅうはっさく)を受け入れた真相について取り上げます。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を

            山内容堂と坂本龍馬、理想の上司と部下の[真実]
          • [坂本龍馬の目]横井小楠政治への注目とは?

            今回は福井藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の政治顧問だった横井小楠(よこいしょうなん)について取り上げます。横井小楠は大河ドラマであまり登場することがないため、注目されていません。坂本龍馬(さかもとりょうま)や吉田松陰(よしだしょういん)ら著名な人物が横井小楠の政治に注目していたという記録が残っています。 まず、横井小楠の生い立ちから福井藩松平春嶽の政治顧問になるまでの過程を取り上げます。次に、横井小楠の政治と思想について取り上げます。終わりに、大成奉還後の横井小楠について取り上げます。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取

              [坂本龍馬の目]横井小楠政治への注目とは?
            • 西郷隆盛が渋沢栄一に忠告できた要因は大和民族に関係あり?青天を衝け 第15回 - 画家&イラストレーター W_AKIRAのブログ

              出典:https://www.nhk.or.jp/seiten/ ドラマ『青天を衝け 第15回 篤太夫、薩摩潜入』では、西郷隆盛が渋沢栄一に忠告しますが、この言葉の裏には大和民族が大いに関係していたので詳しく解説しましょう。 大河ドラマ『青天を衝け 第15回』のキャスト 脚本&語り 女優&男優 大河ドラマ『青天を衝け 第15回』のストーリー 『西郷隆盛が渋沢栄一に忠告できた要因は大和民族に関係あり』 大河ドラマ『青天を衝け』の全話のストーリー 大河ドラマ『青天を衝け 第15回』のまとめ 大河ドラマ『青天を衝け 第15回』のキャスト 2021年の大河ドラマ『青天を衝け』は、2021年2月14日から放送開始されました。 脚本&語り 脚本:大森美香 演出:黒崎博・村橋直樹・渡辺哲也・田中健二・川野秀昭 女優&男優 大河ドラマ『青天を衝け 第回』に出演する俳優や女優さんたちです。 徳川家茂(演:磯

                西郷隆盛が渋沢栄一に忠告できた要因は大和民族に関係あり?青天を衝け 第15回 - 画家&イラストレーター W_AKIRAのブログ
              • 13-2 竜馬がゆく② (-1966) - 小説を 勝手にくくって 20選!

                【中古】 竜馬がゆく(5)/萬屋錦之介(企画、出演),大谷直子,若林豪,中村嘉葎雄,あべ静江,夏木陽介,田村高廣,司馬遼太郎 【中古】afb 価格: 990 円楽天で詳細を見る *テレビ東京で1982年正月に12時間テレビで放映した作品。当時頭が痛くなるまで「一気見」しました。 【あらすじ】 勝海舟と運命的な出会いを果たして開眼した竜馬は、攘夷活動とは袂を分かち独自の道を歩む決意をする。貿易により国力を富ますことを目的として、勝の元で神戸海軍塾の設立に奔走する。 その最中に時代は反転する。池田屋事変から禁中の変と進み、過激な尊皇攘夷運動は終息し、長州藩は幕府から討伐を受ける立場になる。土佐藩も山内容堂が直接勤王党に弾圧を加えて、竜馬の盟友武市半平太は切腹を命じられる。幕府内でも勝海舟の立場は危うくなり、神戸海軍塾は閉鎖となった。 竜馬は失意の中にいたが、薩摩藩は海軍塾の操練技術を高く評価し

                • 日本の中央にある神社 その④ - 『世界最古の国』日本

                  前回は『生島足神社(いくしまたるしまじんじゃ)』に関連する戦国武将をお伝えし、最後に徳川幕府が幕末に突入したきっかけになった『桜田門外ノ変』で殺害されてしまった『大老・井伊直弼(いいなおすけ)』の事を少しだけお伝えしましたが、実はスゴイ人なんです。 と言うのも、父である近江彦根藩主直中は沢山子供がいまして直弼本人も14番目の男子、しかも庶子(母が正室ではない)だった為に、養子にも行けずに部屋住みと呼ばれる彦根城内でずっと過ごしていました。 その中で、茶道や国学・また兵学や居合術を学び早くからその聡明さを示していました。 そんな中、兄である直亮が死去してしまった為に、養子になる形で直弼が家督を継ぎ、近江彦根藩の15代藩主となり「名君」と呼ばれていました。 その後、ペリー来航(黒船来航)により国内は揺れ動き、徳川幕府は開国と言う形を取りました。 その際に、各藩が江戸湾(東京湾)の警護のために配

                    日本の中央にある神社 その④ - 『世界最古の国』日本
                  • 福井県というところ11 松平春嶽3 - 70代の真実

                    ということで、有名な家臣を3人紹介します。 この人たち、面白いです。 どうしても書きたいので、付き合ってください。 幕末の春嶽を支えた家臣たち 橋本左内 天保5年3/11(1834)〜安政6年10/7(1859) 早く死にました。26歳。安政の大獄の時に獄死しましたから。 お父さんは藩医、医者です。 16歳の時に「啓発録」ってのを書きました。 子供の心を捨てて、勉学に励めという内容のようです。 これ書いたので、ぼくら福井の子達は学校で橋本左内の名前を聞かされてます。 そのせいで、どういう人だったのか、全く知ろうとしませんでした、これはぼくだけです。 佐内公園にて橋本左内像 「啓発録」を書いた翌年、大阪の適塾で学んじゃいます。 緒方洪庵について勉強しました。 そのうち父親が病に倒れたので、福井に戻って代診なんかして、医者の仕事します。 父親が亡くなり、代わって藩医になりました。 安政元年(1

                      福井県というところ11 松平春嶽3 - 70代の真実
                    • 徳川慶喜はなぜ政権を返上したのか。「大政奉還」によって何が起きなかったかを考える | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

                      大政奉還に至るまで 文久3年の八月十八日政変のクーデターでも、禁門の変でも、そして、幕府と長州の第一次幕長戦争でも、一貫して幕府側に立って参戦してきた薩摩藩が、幕府と距離を置くようになりました。 薩摩藩が幕府を見限ったのは、文久4年=元治元年(1864)に発足した朝廷の諮問機関=参預会議に藩主の父である島津久光を送り込みながら、政見の違いから一橋慶喜と対立したことが発端です。酒席で泥酔した慶喜が、久光と松平春嶽(前福井藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)の三人を「天下の大愚物・大奸物」と罵ったため、参預会議は空中分解してしまいました。 参預たちを朝廷から遠ざけた慶喜は、将軍後見職を辞し、あらたに設けられた禁裏御守衛総督に就任、京都守護職の松平容保(会津藩主)、京都所司代の松平定敬(桑名藩主)とともに「一会桑」と呼ばれる勢力を築きます。 一会桑は、それぞれ幕府の出先機関の一部を担う立場でしたが、

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                      • 橋本左内寓居跡@龍馬をゆく2021 - うめじろうのええじゃないか!

                        二条城のすぐ前、東側にめちゃくちゃ立派なホテルがありますよね・・。「ホテル・ザ・ミツイ・キョウト」でしょうか・・。どうやら、セレヴィーな人が宿泊するホテル、佇まいもめっちゃカッキカキです・・! こちらは幕末、福井藩邸があった場所のようで、その北側の一角に、「橋本左内寓居跡」碑がありました。 橋本左内は福井藩の医者の息子でしたでしょうか、非常に頭の良い、いわゆるエリートですね。 生まれは天保5年(1834)と言いますから、龍馬の一個上、まさしく同世代。嘉永5年には大坂に出て適塾に学びます。ちょうど龍馬が未だ「ハナタレ」?で、日根野道場で剣術修行をしていた頃でしょうか、秀才は蘭方医の緒方洪庵に学んでいたわけであります。安政になると江戸に遊学し、藤田東湖や梅田雲浜、西郷吉之助や横井小楠とも交流したそうです。やがて福井藩主の松平春嶽公に側近として登用され、将軍継嗣問題では春嶽を助け一橋慶喜擁立運動

                          橋本左内寓居跡@龍馬をゆく2021 - うめじろうのええじゃないか!
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