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  • 東郷平八郎が「日露戦争の勝利は幕臣・小栗上野介のお陰」と感謝した理由 『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第58回) | JBpress (ジェイビープレス)

    (柳原三佳・ノンフィクション作家) 〈もし、ロシアに負けていたら日本海はロシアに抑えられて自由に航海できず、日本はロシアの言いなりの国になっていたことでしょう〉 ロシアによるウクライナ侵攻のニュースを連日のように目にする中、この一文が目に留まりました。 今年1月、子ども向けに出版された『小栗さま 小栗上野介』(編著/村上泰賢/東善寺発行)という本の中に記された一節です。 振り返れば、日本もかつてロシアと戦争をしていました。今から118年前、朝鮮・満州の支配権をめぐって勃発した「日露戦争」です。 東郷平八郎が小栗忠順に感謝した理由 1904(明治37)年、この戦いは日本側が旅順を攻撃したことで始まり、翌年、東郷平八郎率いる日本海軍が、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破り、勝利を収めたのです。 実は、この戦争の終結から7年後の1912(明治45)年夏、東郷平八郎がこんな「言葉」を残していた

      東郷平八郎が「日露戦争の勝利は幕臣・小栗上野介のお陰」と感謝した理由 『開成を作った男、佐野鼎』を辿る旅(第58回) | JBpress (ジェイビープレス)
    • 家禄が大幅に削減された士族のなかでも特に悲惨な目にあった徳川の旧幕臣たち

      そこで藩士へ(静岡)藩庁から諭達が出た。人多く、禄すくなし、在来の臣下をことごとく扶持することができぬから、この際『朝臣*』となるか、『農商』に帰するか、また強いて藩地へ供せんというものは『無禄』の覚悟にて移住をしろ、とまずは縁切状、それを出された。 そこで藩士は、この三者の一を選んで、身の処置をなさねばならぬ次第となった。当面利害の点からいうと、その朝臣になると、禄高は従来取りきたりのまま(もっとも後には減らされたそうだが)、地面家作、その他残らず現在形のままで下されるという。これは至極割合の好い話であったが、なぜかこれには応ずるものがすくなかった。…(帰農商については)帰農はすくなくて、あるのはやはり千石以上の知行取り、即ち旧采地に引っ込むというのに多かった。中から下にかけて、即ち三十俵四十俵から二百俵三百俵の連中には帰商もかなりあったようだが、その多かったのは無禄移住。どこまでも藩地

        家禄が大幅に削減された士族のなかでも特に悲惨な目にあった徳川の旧幕臣たち
      • 静岡に移住した旧幕臣や、下北半島に移住した旧会津藩士たちの悲惨な暮らし

        「扶持(ふち)」というのは、主として下級武士に蔵米や現金のほかにあたえられた米で、「一人扶持」とは、武士一人一日の標準的生計費用を玄米五合*と算定し、一か月分(三十日で一斗五升*)を支給することを意味する。一人半扶持は二斗二升五合で、重さにすると33.75kgとなる(1合=150g)。現在価値にして一万五千円程度だと思われる。 *一斗=18.039ℓ=十升=百合 (一合=180.39cc) さらに塚原は一両二分の給金があったとあるが、『幕末豆知識』というサイトで、慶応三年末に金一両で米が12.9kg買えたとある。二分というのは一両の半分なので、19.35kg(12.9kg×1.5)のコメの購入が可能。現在価値にして八千六百円程度だろうか。 まとめると、塚原が静岡藩から受け取っていたのは二万三千六百円程度で、本人は五千七百円程度で一か月を生活し、残りを両親に与えたということになる。当然この程

          静岡に移住した旧幕臣や、下北半島に移住した旧会津藩士たちの悲惨な暮らし
        • 徳川家旧幕臣らが茶畑の開墾を始めた牧之原台地

          牧之原台地開墾の経緯 このブログで、明治元年に徳川家が駿府(静岡)に移封され、旧幕臣達の多くが無禄覚悟で静岡に移住したのだが悲惨な生活であったことを書いた。彼らを救うには彼らが生活できる程度の収入の得られる仕事がなければならなかったのだが、士族の中から、手付かずの原野の開拓に第二の人生を賭けようとした人物が現われたのである。 岩波文庫の『海舟座談』に、旧幕臣達が士族の身分を捨てて静岡で茶畑の開墾を始めた経緯について述べているところがある。 明治二年(1869年)、戊辰戦争が終結した頃に勝海舟は旧幕臣である中條(ちゅうじょう)金之助(景昭)と大草多起次郎(高重)の訪問を受けている。 この二人は、大政奉還後は徳川慶喜を警護する精鋭隊の中心メンバーであり、江戸開城の際には仲間と共に江戸城内で自決するつもりであったが勝海舟の説得で思いとどまり、駿府(静岡)に移住して徳川家康を祀る久能山八幡宮を守護

            徳川家旧幕臣らが茶畑の開墾を始めた牧之原台地
          • 「幕臣→官僚→大実業家」渋沢栄一はなぜ"転職出世"に成功できたのか 「500社の父」の原点は論語にあった

            NHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一は500社もの会社を立ち上げた。論語塾講師の安岡定子さんは「個人よりも公共の利益を優先してきた渋沢の原点は『論語』にある」と指摘する。歴史好きとして知られるお笑い芸人のビビる大木さんとの対談をお届けしよう――。(前編/全2回) 今こそ渋沢栄一の生き方にヒントがある 【ビビる大木】昨年は世界中が新型コロナウイルスのパンデミックに巻き込まれ、国民みんなが、暮らしはどうなるのか、経済はどうなるのか、と不安に駆られているうちに幕を閉じました。そして、いつになったら収まるんだろう、もとの暮らしに戻れるのだろうか、さあ、どうしようとの思いで迎えた2021年、僕らは奇くしくもNHK大河ドラマで渋沢栄一の生涯や人となりに触れることになりました。 もちろん今年の大河ドラマの主人公が渋沢さんということは、ずっと以前に決まっていたことで、全くの偶然に過ぎませんが

              「幕臣→官僚→大実業家」渋沢栄一はなぜ"転職出世"に成功できたのか 「500社の父」の原点は論語にあった
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