なぜ源頼朝と義経は対立するようになったのか 元暦2年(1185)4月25日、壇ノ浦合戦で平家を滅ぼした源義経は、京都に凱旋がいせんした。義経は得意の絶頂にあったことだろう。だが、この日を境に彼の運命は暗転する。 5月7日、義経は平家の総帥である平宗盛らの捕虜を従えて、鎌倉に向けて出発した(『玉葉』)。だが5月15日、義経が使者を派遣して翌日に鎌倉入りすると頼朝に伝えたところ、頼朝は義経に対して鎌倉入りを禁じて待機を命じた。頼朝は、自身の許可をとらず勝手な行動を繰り返す義経に深い憤りを覚えていたのである(『吾妻鏡』)。 足止めを食った義経は、梶原景時らの讒言ざんげんによって頼朝が誤解していると考え、頼朝側近の大江広元に弁明書を送り、頼朝への取りなしを求めた。これがいわゆる「腰越状」である。文面に若干の異同があるが、『吾妻鏡』・『平家物語』諸本・『義経記』などに同状は収録されている。 戦争の天