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腰越状の検索結果1 - 3 件 / 3件

  • 北条氏が鎌倉を牛耳るための創作だった…鎌倉時代の歴史書が「源頼朝と義経の兄弟ケンカ」を描くワケ 「腰越状」は完全なウソである5つの理由

    なぜ源頼朝と義経は対立するようになったのか 元暦2年(1185)4月25日、壇ノ浦合戦で平家を滅ぼした源義経は、京都に凱旋がいせんした。義経は得意の絶頂にあったことだろう。だが、この日を境に彼の運命は暗転する。 5月7日、義経は平家の総帥である平宗盛らの捕虜を従えて、鎌倉に向けて出発した(『玉葉』)。だが5月15日、義経が使者を派遣して翌日に鎌倉入りすると頼朝に伝えたところ、頼朝は義経に対して鎌倉入りを禁じて待機を命じた。頼朝は、自身の許可をとらず勝手な行動を繰り返す義経に深い憤りを覚えていたのである(『吾妻鏡』)。 足止めを食った義経は、梶原景時らの讒言ざんげんによって頼朝が誤解していると考え、頼朝側近の大江広元に弁明書を送り、頼朝への取りなしを求めた。これがいわゆる「腰越状」である。文面に若干の異同があるが、『吾妻鏡』・『平家物語』諸本・『義経記』などに同状は収録されている。 戦争の天

      北条氏が鎌倉を牛耳るための創作だった…鎌倉時代の歴史書が「源頼朝と義経の兄弟ケンカ」を描くワケ 「腰越状」は完全なウソである5つの理由
    • 鎌倉腰越「満福寺」!義経が頼朝に宛てた腰越状、その思いも虚しく…

      こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、源義経が兄頼朝に宛てて綴った手紙「腰越状」、それを書いた場所とされる鎌倉市腰越「満福寺」です。 義経ファンには胸が締め付けられる場所…。境内には「義経と弁慶主従の像」や「弁慶の腰掛石」、堂内には「腰越状の下書き」もありました…。 ■腰越状 寿永4年/元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで、ついに源平合戦は終結。 平家は滅亡…。源氏の棟梁・源頼朝は、鎌倉を拠点とした新しい武家政権を開きました。 壇ノ浦の戦いをはじめとする合戦において、天才的な軍略を発揮し源氏を勝利に導いたのが、頼朝の弟・源義経です。 京に凱旋した義経は、後白河法皇からその功を讃えられ、配下の御家人らとともに官位を授かりました。 これに激怒したのが源頼朝です。自身の承認も得ず任官した者たちを罵り、東国への帰還を禁じました。 さらに梶原景時から頼朝へ、平家

        鎌倉腰越「満福寺」!義経が頼朝に宛てた腰越状、その思いも虚しく…
      • <ぶらり旅>源義経宿陣之跡・満福寺(鎌倉市) ~ 腰越状起草の地 - 青空のスローな生活

        1180年(治承4年)8月、源頼朝が伊豆で打倒平氏の挙兵をしたとき、 奥州藤原氏のもとからいち早く駆け付け、 源平合戦を勝利へと導く立役者の一人となった弟・義経。 1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦の戦いで、平氏は滅亡し、 5月に、義経は、平氏方総大将の宗盛・清宗父子を護送する名目で京から鎌倉へ向かいます。 しかし、前年の8月、頼朝の許可なく朝廷から検非違使の職を受けるなどして怒りをかっていた義経は、 鎌倉に入ることを許されず、腰越で止められてしまいました。 このとき、義経は、頼朝にあてて切々とその心情を綴った腰越状を送ったとされています。 グーグルマップで腰越周辺を見ていたときに、偶然、「源義経宿陣之跡」なるものを見つけました。 先日、義経が腰越状を起草したと伝えられる満福寺(鎌倉市)を訪ねてみました。 ※鎌倉時代の史実には、諸説あるものが多く、記載に間違いがありましたらご容赦くだ

          <ぶらり旅>源義経宿陣之跡・満福寺(鎌倉市) ~ 腰越状起草の地 - 青空のスローな生活
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