好きな詩はたくさんあるけれど、本当に好きな詩と出会うことは、そうたびたびは起こらない。一生に何度かあればいい方だろう。本当に好きな詩は、本物の恋に似て、いつも予期せぬ事件として立ち現れる。ミレニアム前後だったろうか、仕事でポーランド・ワルシャワを訪れたついでに、週末を古都クラクフで過ごすことにした。列車に乗り込む前、駅の近くの大きな書店に寄った。ヨーロッパでも、詩は書店の片隅に追いやられている

トルコ・ハルフェティ連詩で発詩を務めたゴクチェナーは、蕪村と山頭火とアメリカ現代詩を愛するトルコの詩人だ。出会いはリトアニアの詩祭だった。お互いビジネスと詩の二足の草鞋（わらじ）だと知って意気投合した。彼の詩（の英訳）を通して、僕はトルコの人たちが日本人と極めて似通った美的感性の持ち主であることを知った。ハルフェティ連詩の2番手は、ペリン・オゼル。黒いドレスに身を包んだ、「お淑（しと）やか」と

僕らは水の上に立っていた。畔ではなく、文字通り広大な水の面に。薄暮に包まれて、頭上の空と足もとの水が無限に響き合い、まるで虚空に浮かんでいるかのようだった。「あの辺に僕の家はあった。あっちに見えているのは、僕が通った小学校の屋根だ」ニハット・オズダルが水底を覗きこむように言った。そのさらに向こうには、モスクの尖塔（せんとう）の先っぽだけが突き出していた。2018年、シリアとの国境に近いトルコ

兎（うさぎ）の年。彼が初めて獣になったと気づくのは、変身を遂げて、眼（め）の前を行く野の兎を追った瞬間からであった。気づくと口の回りが血まみれに。ああ寅（とら）年にすべき話題だったかもしれない。私は国語の教師である。授業で中島敦の小説「山月記」に入った。学生の頃から愛読している短篇（たんぺん）だ。高級官吏の職を捨てて詩人になる夢を抱くが、一流にはなり切れない主人公の李徴が、やがて獰猛（どうもう

2019年の香港詩祭には、中東欧の詩人が目立った。30年前まで共産主義独裁のもとにあった彼らにとって、香港の抵抗は他人事ではなかった。アナ・ブランディアナもその一人。80歳近かったが、若々しく華やかな笑顔はベテラン女優の風格だった。専属の通訳の女性が影のように寄り添い、アナの発言の一語一句漏らすまいと書きとる様子が、祖国ルーマニアでの詩人としての地位の高さを窺（うかが）わせた。アナは17歳で

「オペラ座の怪人」ならぬ「コンビニの怪人」とでも呼んでみようか。職場の近くにある山の麓の公園の前のコンビニで、早朝によく見かけるご年配の紳士がいる。 朝の７時過ぎに駆け込むようにして店に入り、朝食と昼食とコーヒーを目に付く物から買い求めることの多い私だが、会計を済ませて車に乗り込もうとすると、静か…

「日本近代詩の父」と呼ばれる前橋市の詩人、萩原朔太郎（1886～1942年）。同郷の伊藤信吉（1906～2002...

運営のひどい詩祭ほど、詩人同士は盛り上がるというパラドックス。悪夢のルーマニア某所で、ベルギーのフィリップに劣らず一座の人気者となったのが、ジョージアから来ていたShotaだった。苗字（みょうじ）はLatashviliだが、僕と白石かずこさんにとっては「正太」。空き時間にいきなりパントマイムを始めると、抱腹絶倒、忽（たちま）ち人だかりの輪ができる。ひょろりと背が高く、頰骨の出た顔は、メイクなしで

歌と詩と幻想に満ちたアントワープの元銭湯での一夜に僕を導いたのは、フィリップ・メアズマンという若い詩人。ゲント出身のベルギー人だが、初めて会ったのはルーマニア。主催者がいかさま師まがいのやり方で参加詩人から金を毟（むし）り取ろうとする悪名高い詩祭だったのだが、窮地に陥ると、却（かえ）って結束が強まるというもの。知らぬが仏の詩人たちは肩を寄せ合い助け合い、深い友情が芽生えたのだった。なかでもフィ

ベルギーって不思議な国だ。首都ブリュッセルも含めて、南の方は小さなパリとも言うべきフランス語圏だが、北はオランダ語の方言であるフラマン語を話している。北方の冷たい合理と、ラテン世界からやってきた夢想が、斑（まだら）に入り混じっているかのようだ。オランダとの国境に近い港町、アントワープでの詩祭に招かれた時のこと。文芸家協会などからの正式な招待ではなく、ルーマニアで知り合った若い詩人に誘われただけ

海外旅行をしていて同胞たる日本人と出くわすと、互いに照れ臭そうな顔を浮かべる。旅の夢のなかから、現実に引き戻されるからだろう。ストゥルガの詩祭に参加しているとき、会場のロビーに日本人の夫婦が入ってきた。夫は髭面（ひげづら）でふたりともリュックを背負っていた。「これは何をやってるんですか？」「詩祭です」と答えるとびっくりした様子で、「僕も詩人です。福間健二と言います」第1詩集を出したのがアメリ

ロッテルダム中央駅から通勤電車で20分ほどの郊外だった。小さな庭のある数軒続きの家のひとつで、屋内は外から見るよりも広く、奥深い。マーティン・ムーイは、テラスのテーブルに冷たいビールと食パンと酢漬けの鰊（にしん）を並べた。僕がナイフとフォークを使おうとすると、優しく制して、鰊の尾を指で摘まみ、喉を反らすように空を仰いで、垂直に口の中へ降ろしてゆく。「これが正しい鰊の食べ方だよ」車椅子の奥さん

2004年夏、マケドニアの詩祭に行くのを機に、22年勤めた会社を辞めた。辞表を出した途端、背中から重しが外れて、宙に浮かびそうな解放感に包まれた。でもその背中はうそ寒かった。とんでもない間違いを犯しているんじゃないか。詩に専念するとは言っても、朝妻や子供たちを送り出して机に向かうと、昼前には書けてしまうのだった。あとには長い無為の午後ばかり。それに耐えることが、詩人としての本職なのだとも思っ

2010年、熊本で連詩を巻いた。メンバーは谷川俊太郎、伊藤比呂美、覚和歌子、そしてジェローム・ローゼンバーグ。ジェロームは米国現代詩の大御所で、北米原住民の口承詩の権威である。カリフォルニアの伊藤さんの家の真向かいに住んでいる。僕らが日本語で書いた詩は英語に、ジェロームが英語で書いた詩は日本語に、逐次訳しながら進めてゆく。外国の詩人と連詩を巻くときには翻訳が成否の鍵を握るといっても過言ではない

7月 体と言葉が通じないので泣いている わたしは見守る役だ 豊かさがよく分からないものとしてあることの 不安は連続、密集していて 続きを引き取って励ます 外出していてにわか雨に出くわしてしまった。運悪く傘は持っていなかった。玉のような水に打たれながら家に戻り、シャワーを浴びて、夕方のニュース番組を眺める。元首相の銃撃事件、コロナ感染の波、ウクライナ侵攻、物価高にまつわる内容など暗いニュースが続く。茶の間でも強い雨が降り続いているかのような、視界の晴れない感じだ。「体と言葉が通じないので泣いている」というフレーズが突然に浮かび、はっとさせられた。 井戸川射子の新詩集「遠景」（思潮社）にあった詩句である。読後の強烈な印象は皮膚に打ちつけてきた先ほどの雨粒の感触を思い起こさせるかのようだ。一見すると難解な印象がどこかあるかもしれないが、吸引力がどの詩にもある。何度も読み返していくうちに新鮮な像を

サーミ族を代表する詩人アイルことニルス=アスラク・ヴァルケアパーとは2年の差で会い損ねたが（彼の葬儀にはフィンランドの大臣まで駆け付けたそうだ）、その数年後、僕はもうひとりのサーミ詩人と出会うことになる。ノルウェイ・トロムソ。かつては極地探検の基地となった場所である。時は11月、真昼でも太陽は地平すれすれで、夜には町の上にオーロラが揺らぐのだった。薄暗い地下のバーに大勢の若者たち、真ん中にはマ

連詩という言葉がある。連歌でも連句でもなく、連詩。上句下句とか、花の座とかのルールはないけど、ひとつの座を囲んだ詩人たちが即興で連ねてゆく、その精神は変わらない。2003年11月、現代版連詩の創設者、大岡信が主宰する「しずおか連詩の会」に招かれた。連衆は小池昌代とオランダから来たヘンク・ベルンレフとウィレム・ファン・トールン。大岡さん以外はみんなこれが初体験だ。初日の前夜、知事を囲んだ夕食会

2005年のセルビア・スメデレボ詩祭。NATO空爆の名残で、宿舎の停電が直らないというので、詩人たちは市内のアパートに移ることとなった。誰の家なのか分からないけど、本棚にぎっしりと蔵書が並ぶ、知的で静謐（せいひつ）な部屋だった。寝室もふたつあって、ロシアから来た青年詩人がルームメイトになった。彼の名はアレクセイ・ショロホフ。無口で大柄だが甘い顔立ち。入念に梳（と）かした長髪と純白のスーツ。どこ

石垣りんさんの詩『ランドセル』。新一年生に語りかけるように＜あなたはちいさい肩に／はじめて／何か、を背負う＞と始める▼＜机に向かってひらく教科書／それは級友全部と同じ持ちもの／なかには／同じことが書かれているけれど／読み上げる声の千差万別／入学のその翌日から／ほんの少しずつ／あなたたちのランドセルの重みは／違ってくるのだ＞。重みが違ってくるのは、子どもも年相応に何かを背負いながら生きていくためだろうか▼比喩的な「背負うもの」でなく、現実のランドセルも重いようだ。キャスター付きフレームに取り付け、キャリーケースのように運ぶ新商品「さんぽセル」が人気という。小学生が発案した▼教科書が厚くなって荷物が重くなり、文部科学省は四年前、一部を学校に置くなど工夫し、負担を減らすよう各教育委員会に通知したが、改善したのだろうか。最近はタブレットを持つ子もいる。体育用品を扱う企業「フットマーク」が昨秋に発表