2013年5月4日のブックマーク (6件)

  • DV目撃で子どもの脳萎縮 福井大など発表

    ドメスティックバイオレンス(DV)を日常的に目撃した子供は、目で見たものを認識する脳の視覚野の一部が萎縮する傾向があるという研究成果を、福井大子どものこころの発達研究センターの友田明美教授らがまとめた。2日までに米オンライン科学誌に発表した。 両親間の暴力や暴言を吐く場面など、DVの目撃が成長後も心の病といった形で影響を与えると心理学などで指摘されている。友田教授は「DVを見た嫌な記憶を何度も思い出すことで脳の神経伝達物質に異変が起き、脳の容積や神経活動が変化してさまざまな精神症状を引き起こすのではないか」と推測している。 友田教授は米ハーバード大と共同で、直接虐待を受けたことはないが、夫婦間のDVを目撃してきた18~25歳の男女22人と、目撃した経験がない同年代30人の脳を、磁気共鳴画像装置(MRI)を使い比較した。 その結果、右脳の視覚野にある一部は、目撃した経験がある男女が平均で約6

    sessendo
    sessendo 2013/05/04
    古本屋の殴り書き: DV目撃で子どもの脳萎縮 福井大など発表
  • 飢餓に苛まれる子供たち

    大阪産業大学付属高校同級生殺害事件 ・ 『友だちが怖い ドキュメント・ノベル『いじめ』』南英男 ※ Wikipedia から削除されていたので以前のテキストを全文コピーしておく。   大阪産業大学高等学校 同級生殺害事件(おおさかさんぎょうだいがくこうとうがっこ...

    飢餓に苛まれる子供たち
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    sessendo 2013/05/04
    古本屋の殴り書き: 飢餓に苛まれる子供たち
  • バードリサーチ

    ご要望の多かった鳴き声の図鑑をつくりました。(音声ファイルはwma形式で Windows付属のWindows Media Player等が必要です)。MaciPhoneの方はmp3のボタンを押してください。録音データは個人的な使用にとどめ,ホームページへの転載や商用の無断使用はしないでください。

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    sessendo 2013/05/04
    バードリサーチ 鳴き声図鑑
  • 日本の鳥百科

    「日の鳥百科」の中に掲載されている鳥は、鳴き声の特徴からも検索できます。 あなたが今聞いている鳴き声がどの鳥のものなのか、調べてみませんか?

    日本の鳥百科
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    sessendo 2013/05/04
    鳴き声 日本の鳥百科 もっと知りたい!日本の鳥たち サントリーの愛鳥活動 サントリー
  • 承前 | 愛・正義・平和  

    志賀直哉は1910(明治43)年、27歳のときに徴兵を受けたが訓練開始後9日間で除隊となった。しかしそれは正確ないいようではなく、志賀は9日間で自身のはたらきかけで除隊にさせた、というのがほんとうである。 志賀は十代前半のころは海軍志望であったが、内村鑑三に出会い考えは反転し、軍人をもっとも厭うようになった。志賀は事前の徴兵検査では甲種合格であったが、入隊後、柳宗悦を頼り柳の知人の軍医に診断書を書いてもらうことに成功し、除隊を果たした。それは難聴という診断であった。岩波書店の小林は徴兵検査で不合格になるため策を弄し、志賀は徴兵後まもなく裏側から手をまわし、ふたりとも兵役をのがれた。 志賀は学習院出身であり、昭和天皇に何度も臨席しているようで天皇のことを「天子様」と呼んで神様扱いしていたが、戦争というものに対しては徹底して反対であった。志賀にとっては、天子様をかつぎあげて、天子様を利用して国

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    sessendo 2013/05/04
    それは「やむをえない」とわりきれることではない。わりきっていいことではない。それは明らかなことである。いけないことはいけないと貫くべきなのである。それは私たちが果たすべき社会と歴史に対する責任である。
  • 志賀直哉と三木清 | 愛・正義・平和  

    三木清は1897(明治30)年に兵庫県揖保郡(現在の龍野市)に生まれた。三木は20歳のときに西田幾多郎に師事すべく京都大学哲学科に入り、卒業後は岩波茂雄の支援でドイツとフランスへ留学する。帰国後、三木は30歳のときに法政大学で教鞭をとりながら、岩波書店の編集に携わることとなる。そこで三木と小林勇らは知り合うこととなり、岩波文庫やのちには岩波新書の発行を手がける。一方で三木は精力的に哲学だけでなく社会問題について広く論文活動を行った。三木は1930(昭和5)年に日共産党に資金をカンパしたとの嫌疑で検挙され、半年後執行猶予つきの判決で出所した。三木は40歳のころには近衛文麿のブレーン集団である「昭和研究会」に参加し、研究会からも論文を発表する。45歳のときには陸軍報道班員としてフィリピンに約1年赴任して帰国する。 三木は1945(昭和20)年3月28日に、警視庁から逃亡したとされる高倉輝をか

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    sessendo 2013/05/04
    三木は巣鴨の東京刑務所から豊多摩刑務所に身柄を移され、その間過酷な処遇を受け続け身体を悪くした。8月に日本は敗戦したが、その後も三木は収監されたままで、9月26日に48歳で獄死した。/志賀直哉と三木清