ブックマーク / ujikenorio.hatenablog.com (56)

  • 加藤典洋さんの「ねじれ」「さかさま」の認識 - ujikenorio’s blog

    - 日が先の戦争に敗れて半世紀がたとうとしている。半世紀といえば、けっして短い期間ではない。まだ、「戦後五十年」などといっているのか、という声が聞こえそうでもあるが、このように、敗戦後何年、という呼び名がいまにいたるまで生きていることに、意味があるかといえば、わたしはこのことには、意味があると思う。 これはよくいわれることだが、戦後という時間は敗戦国によってこそ濃密に生きられる。米国でいま、戦後といえばヴェトナム戦争以後であり、ヴェトナム戦争はかの国にとっての有史以来はじめての負けいくさだった。 負けいくさが、それ以前とは違う時間を負けた国にもたらすのは、それをきっかけにその国が、いわばぎくしゃくした、ねじれた生き方を強いられるからである。 ヴェトナム戦争の傷には、一つにはその戦争が「正義」を標榜したにもかかわらっず、「義」のない戦争であったことからきている。日における先の戦争、第二次

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    sessendo 2011/01/31
  • 『一九八四年』はだれの眼から見ても嫌悪すべき存在である。しかし「第七体育学校」の校長は微笑をたたえ、人間的魅力にも欠けていない。 - ujikenorio’s blog

    - かつて、社会を階級社会としてとらえ、その社会の土台における経済的搾取、上部構造における政治的支配を重視したのはマルクスだった。いま私は、それらに加えて、社会的管理あるいは管理社会化の問題を取り上げたい。 管理の極限に『一九八四年』があるかもしれない。しかし、いくらか賢明な政治権力は、『一九八四年』は稚拙な支配形態であると考えている。それは、権力の永久支配ではなく、むしろ権力の動揺と混乱を招きやすい。 大衆支配、硬いしかたではなく、柔軟なしかたで行われる。一元的ではなく、多面的多様的に行われる。とくに、生活、文化教育、意識の管理が重要になっている。保守的政治家たちにも、中央集権的ではなく、他方「分権」的発想が生まれている。「文化の時代」とか「地方の時代」とか一国の首相が言うとき、それはけっして空手形ではない。 まえに権力の「柔構造」や「抑圧的寛容」がさかんに議論されたことがある。しかし

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    sessendo 2011/01/31
  • 【覚え書】太宰治と聖書「日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だった」 - ujikenorio’s blog

    - 「いったいこの自由思想というのは、」と固パンはいよいよまじめに、「その来の姿は、反抗精神です。破壊思想といってもいいかも知れない。王制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて、圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。よく挙げられる例ですけれども、鳩が或る日、神様にお願いした、『私が飛ぶ時、どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない、どうか空気というものを無くして欲しい』神様はその願いを聞き容れてやった。然るに鳩は、いくらはばたいても飛び上がる事が出来なかった。つまりこの鳩が自由思想です。空気の抵抗があってはじめて鳩が飛び上がる事が出来るのです。闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔が出来ません。」 「似たような名前の男がいるじゃないか。」と越後獅子はスリッパを

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    sessendo 2011/01/19
  • 大いなる正午とは、人間が自分の軌道の真ん中にあって、動物と超人との中間に立ち、自分が歩み行くべき夕暮れへの道を自分の最高の希望として祝う時である。 - ujikenorio’s blog

    - ツァラトゥストラは、これらの言葉を述べ終わると、沈黙したが、その有り様は、自分の最後の言葉を述べ終わっていない者のようであった。長いあいだ、彼は杖を自分の手に持って、どちらとも決しかねるふうに、釣り合わせていた。ついに彼は次のように語ったが、−−彼の声は変化していた。 今やわたしはひとりで行く、わたしの弟子たちよ! きみたちもまた、今や立ち去って、ひとりで行け! それがわたしの欲するところだ。 まことに、わたしはきみたちに勧める。わたしから去り、ツァラトゥストラに抵抗せよ! そして、さらによいことには、彼を恥じよ! 彼はきみたちを欺いたかもしれない。 認識の人は、自分の的たちを愛しうるばかりでなく、また自分の友たちを憎むうるのでなくてはならない。いつまでも単なる弟子にとどまるのは、師によく報いるゆえんではない。してきみたちは、まぜわたしの月桂冠をむしり取ろうとしないのか? きみたちはわ

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    sessendo 2011/01/06
  • 【覚え書】「異論反論 『消費=労働』の脱・経済社会 寄稿 岡田斗司夫」、『毎日新聞』2011年1月5日(水)付。 - ujikenorio’s blog

    - 異論反論 寄稿 岡田斗司夫 今年も続く不況の構造をどう見る? 「消費=労働」の脱・経済社会 大学で教えていると、18〜20歳ぐらいの生活感覚の差に驚く。試しに子どもや部下、生徒に聞いてみよう。彼らはびっくりするほど、お金を使っていない。 なぜだろう? 「1円家電のカラクリ 0円iPhoneの正体」(坂口孝則著)に「逆転経済」という言葉がある。この10年、商品の価格が不自然なほど安くなっている。なぜ、それほど下げることができるのか。簡単だ。メーカーがコスト=人件費削減という“経営努力”をするから「安くていいモノ」が作れるのだ。 低い報酬が支える信じられない安さ 「来は40万円支払うべき月給を20万円しか支払わない」「日の工場を閉鎖し、海外に発注する」という“国内不況の大幅増産”で、今の激安ブームは維持されている。 が「うわ〜! 通販でこんなに安い!」と喜ぶ価格で売るためには、息子や

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    sessendo 2011/01/06
  • 「冷静な論争の方法と習慣を作っておかないと、まやかしの議論に引きずられて」しまいますよ。 - ujikenorio’s blog

    - 戦争について意見をもち、討論をし、合意を作り出す上で、どうしても知っておく必要のある基的な論点(argument)を、しっかりと集約して示しておきたいと思う。 「戦争はきらいだ、自分はどんな力の行使にも反対だ」という人に対しては、「目の前であなたの友人が外国の工作員によって、誘拐されようとしているとき、あなたは実力で救いだしてはならないと考えていますか」と問いかけなくてはならない。「自分は戦争をやりたいと思う。略奪も強姦もあらゆる暴力が承認された状態が戦争であって、戦時の人権侵害を禁止すべきではない。それは人間の根源的な暴力性の開放の祝祭である」とうそぶく人がいたら、「あらゆる犯罪を許容することと、どこが違うのか」と問いかけなくてはならない。そういう一見無駄で、ばかばかしくて、白々しいような応答の訓練をし、準備しておかなくてはならない。 どんな問題にも、一見すると、まことしやかな、か

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    sessendo 2010/12/30
  • 【覚え書】たといそれが《最終的に》であるとしても。そうした《決定的なもの》という思想自体、無意味である - ujikenorio’s blog

    - 社会の変革、自治社会の樹立は、生産の過程の中で単独に中心的に成就されることは明らかにできなかったしできない、人類学的な変化をともなう。そうでないとすれば、社会の変革という思想は、興味のない虚構である。でないとするなら、既成秩序の否認、自治のための闘い、個人的・集団的な新しい生活のあり方の創造は、社会生活のあらゆる領域を(闘争的に対決的に)侵蝕するし、侵蝕するであろう。それらの領域の中で、(決定的な)役割を果たすいかなる領域もない。たといそれが《最終的に》であるとしても。そうした《決定的なもの》という思想自体、無意味である。 −−コリュネリュウス・カストリアディス(江口幹訳)『社会主義か野蛮か』法政大学出版局、1990年、423-424頁。 - 《決定的なもの》という発想じたいが、傲慢なのかもしれませんな、思想の世界においては。《決定的なもの》へと高めていくことは可能でしょうが・・・。

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    sessendo 2010/12/28
  • 「目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たち」でありたい - ujikenorio’s blog

    - 歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪−−これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。 この犯罪に手を染めたのは少数です。公けの目にふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった苦難を嘗めなければならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞することができました。 シナゴーグの放火、略奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒瀆があったとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。 目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列

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    sessendo 2010/12/16
  • 理性の発言は、常に自由な国民の一致した意見にほかならない。そして国民の一人びとりは、自分の懸念を−−それどころか各自の拒否権をすら憚ることなく表明し得なければならない - ujikenorio’s blog

    - 理性は、その一切の企てにおいて批判に随順しなければならない、またこの批判の自由を禁令によって侵害するようなことがあってはならない。もしそのようなことをしたら、理性は自分自身を傷つけ、かつ自分にとって不利な疑惑を招くことになる。効用の点ではいかに重要なものであっても、またいかに神聖なものであっても、吟味と検討とを尽くして探究する批判を免れることは許されない。そしてまたこの批判は、個人の権威を無視して顧みないものである。理性の存在すら、この自由を根底としてのみ成立する。しかし、理性は、専制君主的な権威をもつものではない、理性の発言は、常に自由な国民の一致した意見にほかならない。そして国民の一人びとりは、自分の懸念を−−それどころか各自の拒否権をすら憚ることなく表明し得なければならない。 しかし、理性は、たとえ批判を拒み得ないにせよ、それだからといって必ずしも批判を恐れ憚る必要はない。 −−

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    sessendo 2010/12/15
  • 21世紀を生きるひとびとのマニフェスト:ポパーの寛容論 - ujikenorio’s blog

    - VI ですから、こんにちでも「わたくしは、自分が何も知らないということ、そしてそのことをほとんど知っていないということを知っている」というソクラテス的洞察がきわめて実際的である−−おそらくソクラテスの時代よりもはるかに実際的である−−ことを示す四つの理由が存在します。またわれわれは寛容を養護するために、この洞察から、エラスムス、モンテーニュ、ヴォルテールそしてのちにはレッシングが引き出した倫理的帰結を引き出す根拠をもっています。そしてさらに、それ以上の帰結を引き出す根拠ももっています。あらゆる合理的討論、つまり、真理探求に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、来、倫理的な原則です。そのような原則を三つ述べておきましょう。 一、可謬性の原則。おそらくわたしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。 二、合理的討

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    sessendo 2010/12/13
  • 「先生……では、“生命、自由、幸福の追求”については、どうなのですか?」 - ujikenorio’s blog

    - 「…… 人間というものは、どんな種類のものであれ、生まれついての権利など持っていることはあり得ないのだから、その結果は予言できたはずなのだ」 デュボア先生は話をとぎらした。だれかがその餌にとびついた。 「先生……では、“生命、自由、幸福の追求”については、どうなのですか?」 「ええと、そうだ、“奪うことのできない権利”だな。毎年のように、だれかが、このりっぱな詩のような文句を引っぱりだしてくるな。生命か? 太平洋のどまん中で溺れかかっている男に、どのような生きる“権利”があるというんだね? 大海原は、この男の叫びなどに耳を傾けはしない。子供らを救うためには自分の命を捨てなければいけない父親にとって、なにが生きる“権利”なのだ? もし、その父親が自分自身の生命を助けるほうを選ぶとしたら、“権利”があったからそうしたとでも言うのか? ふたりの男が餓死しかかっており、人肉をべることだけが生

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    sessendo 2010/12/12
  • 人間に奉仕するための道具であるにすぎない - ujikenorio’s blog

    - 国家は、政治団体の一部、すなわち特に法の維持・共同の福祉と公共の秩序との促進・公務の処理を担当する部分にすぎない。国家は、全体の利益というものを専門に司る部分である。国家は一個人でもなければ、人々の一団でもない。国家は、一群の制度が組み合わされて一つの最高級の機械となったものである。この種の技術作品は、人間によって作られ、人間の頭脳とエネルギーを用いるものであって、人間なしには無にすぎない。しかし、国家は、理性の優れた具現、非個人的・永続的な上部構造を成すものである。その作用の仕方は、そのうちにおける理性の活動が、法と普遍的な規則の体系によって拘束されていて、われわれの個人的生活におけるよりも一層抽象的であり、経験や個性という偶然的要素から一層ふるい分けられたものであり、また一層冷酷でもあるかぎりにおいて、第二次的な意味で理性的であるといえよう。 国家は、ヘーゲルの唱えたような「理念」

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    sessendo 2010/12/09
  • 匿名的な「空談」と、本来的な互いに共に語りあうこととは、したがって、無責任な「ひと」と、とこれに対応するとの責任ある関係がことなっているように、ことなっているのである。 - ujikenorio’s blog

    - 語る者を聞く者にむすびあわせるものは、たいていの場合たしかに、両者が互いに共に語りあう主題である。そのばあい主題は主題化された主題ではなく、会話の−主題なのである。会話の主題として、主題は一箇の伝達である。根源的にいえば、伝達されたものは、ただ伝達することにおいてのみ現に存在する。或るものを共に分かつ伝達にあって一者は、或るものを伝達することにおいて同時にじぶん自身を他者に分かち与える。分かつこと(タイルング)における「共に(ミット)」の来の意味は、一者−他者(アイン・アンダー)にある。両者が互いに−伝達するもの(アイン・アンダー・ミットタイレン)は、或る他者にそのつど完全に伝達される場合にかぎって「分かたれる」のだ。 相互(アイン・アンダー)という意味で互いに(ジッヒ)なにごとかを伝達するとき、一者はつねに他者たちのうちの或る者と共に語っている。匿名的な「空談」と、来的な互いに共

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    sessendo 2010/12/08
  • 【覚え書】一つの宗教を信仰している者が、他の宗教に対して取る態度 - ujikenorio’s blog

    - 一つの宗教を信仰している者が、他の宗教に対して取る態度は、宗教の基性格たる絶対性によって示されるであろう。宗教的絶対者は、対立の地平たる相対性を底へと超えることによって、対立を絶し、対立するもの同士をそこから包みささえるのである。 宗教信仰がわれわれ人間の信仰であるかぎり、たといどのように絶対性を主張しようとも、相対性を脱することはできない。 これを原理的に否定して、事故の信仰を絶対主義化しようとするなら、それはかえって自己を相対性の地平におとすことであり、そして同時に自己を魔的(デモーニッシュ)なものにすることである。自己を絶対主義化することは、自己と対立する他者を力によって葬ろうとすることになり、それは最も相対的な態度である。力は、他と相対立する地平においてのみ発動されるものだからである。 人間が自己を魔的なありかたから解放し、有限性の自覚に立つなら、かならずや他の宗教信仰に対し

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    sessendo 2010/11/30
  • 「まったく書かれなかったものを読む」。 - ujikenorio’s blog

    「まったく書かれなかったものを読む」。この読み方が最古の読み方なのだ。つまり、それはすべての言語に先立つ読み方であり、内臓から、星座から、あるいは踊りから読みとることだ。のちになって、ひとつの新しい読み方の媒介肢が使われるようになった。すなわちルーネ文字と象形文字である。それらが中継の宿駅となり、かつて神秘術(オクルト)の実践の基盤であったあの模倣の能力は、この駅を経由して書字と言語のなかへ入りこんでゆくこととなったのだという仮説は、いまや容易に理解しうるものとなる。このように言語は、模倣的な行動の最高段階であり、非感性的な類似のもっとも完璧な記録収蔵庫だと言えよう。つまりそれはひとつの媒質(メーデイウム)であって、模倣的な表出と理解とにかかる昔日の力は、残りなくこの媒質のうちへ流れこみ、ついにそれらの力は魔術的な力を清算するにいたるのだ。 −−W・ベンヤミン(佐藤康彦訳)「模倣の能力につ

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    sessendo 2010/11/29
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    アカデミズム底辺で生きる流しのヘタレ神学研究者・氏家法雄による神學、宗教學、倫理學、哲學の噺とか、人の生と世の中を解釈する。思想と現実の対話。 2010年11月25日より「はてな」に雑文を移項いたしますので、今後ともどうぞ宜しくお願いします。 ついでですのでひとつ。 絶賛求職ちう。 過去(2007年8月28日〜2010年11月24日)の雑文は以下のURLより閲覧できます。 引っ越しがうまくいけばこちらへ完全移行の予定。 当分はココログと併用いたします。 Essais d'herméneutique 氏家法雄のブクログは以下のURLから閲覧できます。 ujikenorioの棚 (ujikenorio) - ブクログ - 折々のことば:978 鷲田清一 2017年12月31日 うたかたの仮の浮世の、はかない人間の一生を、何に託してみたところで、大なる差違はない (江戸川乱歩) ◇ 探偵小説

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    sessendo 2010/11/25