ブックマーク / indai.blog.ocn.ne.jp (4)

  • 恐山あれこれ日記: 市井の哲学(?)

    市井の哲学(?) ▼ 「神様がいるかって、いるよ。わからないの?」(某宗教「信者」) ※ まさに「信じるている人」は、「信じている」とは言わない。 ▼ 「私は変わりたいって、人がよく言うけどねぇ、大抵はどうでもいいトコしか変わらないんだよねぇ」(会社員) ※ 変わる当人は同じ人。 ▼ 「支え合いってね、お互い少し力を抜かないとね。どうかすると、突っ張り合いになっちゃうからね」(介護士) ※ ただ「頑張る」人はプロではない。 ▼ 「遅すぎた選択ってさあ、言うじゃん。でも、それまでしなくてすんでた選択なら、大した意味ないよ」(高校生風) ※ 選択することの「悲しみ」は、若い君にはまだ、わかるまい(わからなくていいけど)。 ▼ 「何かをコツコツ積み上げていって、その上に立てば、見はらしがよくなるでしょ。そのとき、どこに向かって行こうかって、考えたらいいさ」(住職) ※ まずは、まわりを片付けよう

    sessendo
    sessendo 2013/03/16
    “「支え合いってね、お互い少し力を抜かないとね。どうかすると、突っ張り合いになっちゃうからね」(介護士) ※ ただ「頑張る」人はプロではない。”
  • 「派遣」は職業ではない - 恐山あれこれ日記

    「派遣」は職業ではない 彼は若い頃から多彩な才能に恵まれていました。それを見込んで、多くの人から様々な仕事を依頼され、それに対して人並み以上の出来栄えで応え、相当の尊敬と収入も得ていました。 私は彼の才能を讃え、その働きぶりを称賛しました。そうしたら、彼はポツリと言いました。 「でもね、そろそろ業を決めなければと思うんですよ」 私は聊か驚きました。彼にしてなお、そう思うのか。 彼の言葉は、近代以後の社会において、「自分が何者であるか」ということが、特定の「職業」によって決定されていることを、端無くも物語っているのです。逆に言えば、今の社会では、「業」が曖昧な者は胡散臭い人間で、「無職」であることは「一人前の社会人」として認められないことを意味しているのです。 彼の話を聞いたとき、私にはふと思ったことがあります。 たとえば、話の流れで、誰かに「ご職業は?」とか「お仕事は何をなさっているの

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    sessendo 2013/03/12
    会社員も職業ではない。身分である。/恐山あれこれ日記: 「派遣」は職業ではない
  • 恐山あれこれ日記: 悲しみの時

    悲しみの時 ご家族の皆さん。壇上のご遺影の若々しさを見るにつけ、皆さんのお悲しみは、私にはお察しすることしかできません。まことにご愁傷のことと存じます。 ただ、私はいま、あえて言わせていただければ、故人がご家族の身と心を尽くした努力に看取られ、日お集まりの、かくも多くの方によって弔われることを目の当たりにしたとき、この場におられる方々のお悲しみには、深い意味があると思わざるを得ません。 昨年の大震災は申すまでもなく、世の中には、突然、まるで引き裂かれるようにして、大切な人を亡くされてしまう方が大勢いらっしゃいます。そういう方々の中には、あまりの衝撃に、悲しむことさえできない人がおられるのです。自分から失われていったものの大きさを、確かに実感する気持ちの余裕も無くしてしまうのでしょう。  思うに、人間の誕生とは、単に子宮から肉体が放出されることではありません。それが「母」となる者の手に抱か

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    sessendo 2012/12/09
    結局のところ、我々には最後、二種類の人間があるだけです。それは、我々が弔う人間とそうでない人間、あるいは悼む人間とそうでない人間。つまり、我々に生の意味を与えてくれた人間とそうでない人間。
  • 恐山あれこれ日記: ちょっとした感想

    ちょっとした感想 以下は、ある寺が主宰する坐禅会の記念誌に寄稿したものです。こういう話は珍しいでしょうから、転載してみます。 坐禅という道しるべ 〇〇寺様の参禅会が三十周年を迎えるのだそうで、まことにおめでたい、また一曹洞宗僧侶として、ありがたいことだと思う。 副住職さんとは永平寺の入門が一緒で、その縁もあってか、会員の皆さんの前で話をさせていただいたり、ご一同がはるばる恐山まで参拝に来て下さったりと、今では何だか他人という気がしない。 そこで、方々で行われている坐禅会の様子を時々見聞して、私が個人的に感じていることを、この機会に聞いていただきたいと思う。 ◆   ◆   ◆ 以前、あちこちのお寺で参禅経験があるという初老の人と話をしていたら、彼がこんなことを言った。 「南さん、坐禅というのは人を傲慢にしますな」 これはおかしいだろう。普通は、坐禅を続けていれば、「我がとれて傲慢でなくなっ

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    sessendo 2010/10/21
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