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伊達政宗に関するshibayan1954のブックマーク (2)

  • 伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4

    慶長遣欧使節は日人が初めてヨーロッパの国を訪れて外交交渉をし、1615年1月30日にはエスパーニャ国王フェリペ3世に、同11月3日にはローマ教皇パウルス5世に謁見したのだが交渉は成功せず、支倉常長は、ソテロをフィリピンに残したまま、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。 伊達政宗は常長から遣欧使節の絶望的な報告を聞いたはずなのだが、記録は何も残されていない。 支倉常長が日を出発した慶長18年9月15日(1613年10月28日)から7年が経過し、その間にキリシタン弾圧が強化されていった。まずこの経過を見てみたい。 江戸幕府は遣欧使節が出発する前年の慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告している。 そしてその翌年の慶長18年2月19日(1613年1月28日)、幕府は直轄地へ出していた

    伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/09
    当然幕府は政宗の謀反を疑った。伊達政宗はそれまでキリシタンを弾圧することはなかったのだが、支倉常長が長崎に上陸したという情報を得て豹変し、急遽キリシタンの取り締まりを決意した。
  • 伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1

    学生時代に仙台藩主伊達政宗が、慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣したことを学んだ(慶長遣欧使節)。 改めて「もう一度読む 山川の日史」を読みなおすと、慶長遣欧使節に関しては「メキシコとの直接貿易をめざしたが、目的は達することが出来なかった」とのコメントがあるだけだ。 しかし、なぜ江戸幕府を差し置いて仙台藩がスペインとの交渉を直接行うことになったのであろうか。また、江戸幕府がキリスト教を禁止していた時期にもかかわらずこの使節がローマ教皇に謁見したことに違和感を覚えていた。 幕府が最初のキリスト教の禁教令を布告したのは慶長17年3月(1612)で、この時に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じ、そしてその年の8月にはキリシタン禁止が明確に成文化されて、法令として全国の諸大名に公布され、領内の一般庶民にキリシタン禁制が義務

    伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/09
    前年に公布された幕府の禁教令にも関わらず、仙台藩主伊達政宗が慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣している。この時期に政宗が慶長遣欧使節を送った目的はどこにあったのか。
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