慶長遣欧使節は日本人が初めてヨーロッパの国を訪れて外交交渉をし、1615年1月30日にはエスパーニャ国王フェリペ3世に、同11月3日にはローマ教皇パウルス5世に謁見したのだが交渉は成功せず、支倉常長は、ソテロをフィリピンに残したまま、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。 伊達政宗は常長から遣欧使節の絶望的な報告を聞いたはずなのだが、記録は何も残されていない。 支倉常長が日本を出発した慶長18年9月15日(1613年10月28日)から7年が経過し、その間にキリシタン弾圧が強化されていった。まずこの経過を見てみたい。 江戸幕府は遣欧使節が出発する前年の慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告している。 そしてその翌年の慶長18年2月19日(1613年1月28日)、幕府は直轄地へ出していた