前回の記事で、光秀が山崎の合戦以降も生きていた伝承や形跡が多いことを書いた。 また「明智光秀がのちに南光坊天海になった」という説を紹介し、その説が唱えられている根拠の一つに、家康が重臣の娘を家光の乳母にしたり、土岐明智家を復活させるなど、家康が明智家に配慮しているように見えるのは、家康の参謀であった南光坊天海が、明智家に近い人物ではないかと思われることを書いた。 通説が正しいことを前提にすると「謎」になるような事象が多い場合は、通説の信憑性を疑ってみても良いのではないかと思うのだ。 最近注目されている明智憲三郎氏の論考では家康と光秀は繋がっていたと考察しておられ、本能寺の変のについて通説とは全く異なる説を唱えておられる。しかも、その論拠は明快で、通説よりもはるかに説得力がある。明智憲三郎氏の視点に立てば、光秀の謎は消えるのである。 本能寺の変の前後の歴史は、秀吉がその4か月後に家臣に書かせ
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