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宮武外骨に関するshibayan1954のブックマーク (1)

  • 廃藩置県で明治政府は県の名前や県庁の場所をどういう基準で決めたのか

    子供の頃に「1都1道2府43県」と覚えて、全国に「47都道府県」があることを学んだのだが、明治4年(1871)7月の廃藩置県で全国の「藩」が「県」となって明治政府の直轄となった時には、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県が存在した。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったために飛び地が各地に残り、同年の秋には3府72県に統合されたという。 その後県の数は徐々に少なくなり、明治5年(1872)69県、明治6年(1873)60県、明治8年(1875)59県、明治9年(1876)35県と合併が進められていったのだが、今度は面積が大きすぎたために地域間対立が起きるなどの問題が出て明治22年(1889)に3府43県となって落ち着くことになる。県の数が大幅に減るとなると、新しく出来た県の名前をどうするかで揉めることになることは誰でもわかる。 明治政府はどう

    廃藩置県で明治政府は県の名前や県庁の場所をどういう基準で決めたのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/27
    廃藩置県後たる明治4年10月より5年6月までの間に改置した県名は、皇政復古に勲功のあった大藩地方の県名と錦の御旗に刃向かった大藩、日和見の曖昧な態度であった大藩地方の県名のつけ方に差がつけられている。
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