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島原の乱に関するshibayan1954のブックマーク (6)

  • 島原の乱に懲りた江戸幕府はオランダに対しても強気で交渉した

    島原の乱の苦い経験に余程懲りたのであろう。江戸幕府は、島原の乱平定の後相次いで訓令を下している。徳富蘇峰の『近世日国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』に原文が掲載されているので、読み下して紹介しておこう。 寛永15年(1638)5月2日に 「一 五百石以上の船、停止と、この以前仰せ出だされ候。今もって其の通りに候。然れども商売船はお許しなされ候。その段心得なすべき事。…」 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/241 同年9月20日には 「一 伴天連門徒、累年御制禁たりと雖(いえど)も、断絶する無く、この度九州に於いて悪逆を企ておわんぬ。これによりいよいよ諸国これを相改む。彼の宗門これありて訴人致すやからは、たとい同宗なりとも、その咎を許され、公儀よりご褒美をくださるべき旨、これを仰せ出ださる。この趣を在国大名へ老中より奉

    島原の乱に懲りた江戸幕府はオランダに対しても強気で交渉した
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/25
    今のわが国は、政治家も官僚も近隣諸国に振り回されているのが現状だが、徳川幕府は、黄金時代を迎えていた強国オランダと強気で交渉し、長い間コントロール下に置いていたことはもっと広く知られるべきだと思う。
  • 島原の乱平定の後も、わが国との貿易再開を諦めなかったポルトガル

    前回の記事で江戸幕府は、島原の乱の「一揆勢」のバックに外国勢力がいると考え、その国はポルトガルであるとしていたことを書いた。だからこそ江戸幕府は天草四郎の首を、長崎の出島にあったポルトガル商館の前に晒し、ポルトガルと国交を断絶するに至ったのである。 実際に島原の乱の「一揆勢」がどこの外国勢力と繋がっていたかどうかについては、ポルトガル側には決定的な史料はないようなのだが、江戸幕府がそう判断していたことが重要なのだ。 宗教に限らず思想についても言えることなのだが、特定地域の住民の多くが外国勢力に強く憧れを持ち、自国がその勢力に征服された方が良いと考える程洗脳されていたとしたら、その外国勢力にもしわが国を侵略する意思がある場合には、その地域住民を味方に付けることで容易にその目的を果たすことができる。 前々回の記事で紹介したイエズス会のペドロ・デ・ラ・クルスがイエズス会総会長に宛てた書翰を読むと

    島原の乱平定の後も、わが国との貿易再開を諦めなかったポルトガル
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/25
    江戸幕府は島原の乱の背後にポルトガルがあると考え、天草四郎の首を長崎の出島にあったポルトガル商館の前に晒し、ポルトガルと国交を断絶するに至ったのだが、ポルトガルは貿易再開を諦めなかった。
  • 島原の乱を江戸幕府はどうやって終息させたのか

    島原の乱が、単純な百姓一揆とは異なる重大事件であったことは前回まで縷々記してきたが、では江戸幕府は、大量の鉄砲と弾薬を持って立て籠もった「一揆勢」をどうやって鎮圧したのであろうか。 前々回の記事で、オランダが「一揆勢」が籠城している原城に向かって艦砲射撃を行なって幕府に協力したことを書いたが、一揆鎮圧のために外国の援助を求めることについては熊藩主・細川忠利らから批判があったようだ。 しかし、熊藩の記録『綿考輯録』によると幕府軍の総大将松平信綱は、オランダ船を呼び寄せて砲撃させたのは、『南蛮国』の援軍を心待ちにしていたキリシタン達に対し、同じ『南蛮国』であるオランダから砲撃させて、籠城勢の希望を砕くためであったと答えたという。 確かに、幕府軍が攻め急ぐ理由はなかった。単純に戦力を比較すると「一揆勢」37千人に対し幕府方は125千人もいて、すでに原城を取り囲んでいたのである。 普通に勝負す

    島原の乱を江戸幕府はどうやって終息させたのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/25
    単純に戦力を比較すると一揆勢37千人に対し幕府方は125千人もいて、すでに原城を取り囲んでいたのである。しかしながら一揆勢には大量の武器・弾薬があり、正面から攻めると幕府方の大量の犠牲が避けられなくなる。
  • 島原の乱の「一揆勢」は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか

    前回の記事で、島原の乱の「一揆勢」が短期間のうちにキリシタンに立ち返り、社寺を破壊し僧侶や神官を殺害した経緯は、キリスト教の教義にある「最後の審判」と関係がありそうなことや、彼らが原城に籠城したのはポルトガルなどの外国勢力の支援を期待していた可能性があり、少なくとも江戸幕府はそのように考えていたことなどを書いた。 「一揆勢」が原城に籠城して3カ月も持ちこたえることができたのは、彼らが武器と弾薬を大量に保有していたからなのだが、では、彼らはこれらをどうやって調達したのだろうか。 「一揆勢」の突然の蜂起を鎮圧するだけの兵力がなかったために、島原藩は領民に武器を貸し与えて鎮圧しようとしたのだが、中にはその武器を手にして一揆軍に加わる者もいたという。しかし、そんなやり方で調達できる武器と弾薬はたかが知れている。 通説では「一揆勢」が島原藩の倉庫や富岡城から武器や弾薬を奪ったと書くのだが、そもそも島

    島原の乱の「一揆勢」は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/25
    島原の乱の一揆勢にはかなりの武器・弾薬を持っていた。しかも、かなりの訓練を受けていた。だから、農民を中心とする部隊が正規軍を相手に3か月も戦えたのだが、彼らは武器・弾薬をどうやって調達したのか。
  • 島原の乱の一揆勢が原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか

    前回の記事で、島原の乱は年貢の減免を求めて農民たちが蹶起したのではなかったことを書いた。乱を主導したのは小西行長の遺臣たちで、代官のもとに押しかけた農民たちは、自分達は元のキリシタンに戻ると宣言し、他の村々や周囲の人々にも、キリシタンに戻ることを迫り、寺社に放火し、僧侶や神官を殺害するなど、宗教色の強いものであった。 厳密に言うと、島原では慶長19年(1614)に松倉重政が入封し、以降のキリシタン弾圧により島原の乱が起こる10年近く前に住民はキリスト教を棄教していた。また、天草では関ヶ原の戦いの後、寺沢広高が領主となり、島原と同様にキリシタン弾圧が行なわれ、ずっと以前から住民はキリスト教を棄教していたのである。 ところが、彼らは島原の乱が起こる直前の短期間のうちにキリシタンに立ち返ったのだが、何がそのきっかけになったのであろうか。 この謎を解く鍵が、島原の乱が勃発する直前の10月13日付け

    島原の乱の一揆勢が原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/25
    島原・天草で蜂起したキリシタン達が原城跡に籠城したということは、常識的に考えて、どこかの勢力の支援を待つということだ。江戸幕府は、島原の乱でポルトガルやスペインが援軍を差し向けることを警戒していた。
  • 島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した

    前回まで江戸幕府が鎖国するに至るまでの経緯について書いてきたが、鎖国政策が強化されていった最中に、わが国史上最大規模の一揆である島原の乱がおきている。 この乱は島原半島と天草諸島が舞台となったが、島原は戦国時代に有馬晴信、天草諸島は小西行長という熱心なキリシタン大名が統治した地域である。その後、関ヶ原の戦いの後に天草諸島は寺沢広高の領地となり、慶長19年(1614)に島原は松倉重政の領地となり、それぞれがキリシタン弾圧を行なったことが知られている。 そして寛永14年(1637)10月に島原の乱が始まっているのだが、わが国の一般的な教科書ではどう描かれているかと思って『もう一度読む 山川の日史』で確かめてみると、こう記されている。 「こうして鎖国政策が強化されていったとき、九州で島原の乱がおこった。そのころ、島原・天草地方には多くのキリスト教徒がいたが、領主は徹底した禁教政策をとり、年貢の

    島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/25
    島原の乱を主導したのは旧領主の家臣であったことが、オランダ商館長の記録やわが国にも多数の文書に記されている。一揆勢は最初に寺社への放火や僧侶の殺害を行った記録があるが、通説では完全に無視されている。
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