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応仁の乱に関するshibayan1954のブックマーク (2)

  • 室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか

    前回まで2回に分けて応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次ぎ、飢餓難民が京に流入しただけでなく、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群が何度か京の街を襲い放火・掠奪を繰り返したのだが、室町幕府は有効な対策が打たないまま、『応仁の乱』が起きたことを書いた。 『応仁の乱』は、最近の教科書ではどう記されているかが気になって、『もういちど読む山川日史』で確認すると、こうなっている。 「応仁の乱 義教死後の幕府は守護大名の勢力争いの場となり、やがて細川勝元と山名持豊(宗全:そうぜん)を中心とする二大勢力が抗争するようになった。両派は、将軍義政のあとつぎをめぐる弟義視(よしみ)と義政の・日野富子のうんだ義尚(よしひさ)との争いを中心に二つにわかれて争った。 このころの相続は分割相続から単独相続へと完全にかわり、家を相続した惣領(家督)の立場が強くなったぶん、その地位をめぐり、一族や家臣団がたがいに争うこ

    室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/17
    応仁の乱が起き、室町幕府の弱体化を招いた責任の大半は、将軍家の家督争いの原因を作りながら、それを解決させないまま争いを継続させた足利義政と妻の日野富子にあった。
  • 飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か

    前回の記事で応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次ぎ、飢餓難民が京に流入しただけでなく、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群も京を目指したことを書いた。 応仁の乱が起こる39年前の正長元年(1428)に有名な『正長の土一揆』が起きている。 【馬借 『石山寺縁起絵巻』より】 Wikipediaにはこう解説されている。 「室町時代中期、凶作(前年からの天候不順)、流行病(三日病)、将軍の代替わり(足利義持から足利義教へ)などの社会不安が高まる中、近江坂や大津の馬借*が徳政を求めた。その一揆が畿内一帯に波及し、各地で借金苦に苦しんだ農民たちが酒屋、土倉、寺院(祠堂銭)を襲い、私徳政を行わせた。… 室町幕府はこれに窮し、管領畠山満家に命じて制圧に乗り出し、侍所所司赤松満祐も出兵したが、一揆の勢いは衰えず、9月中には京都市中に乱入し奈良にも波及した。 尋尊の『大乗院日記目録』には、『正長元年九月 日、

    飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/17
    応仁の乱で東西両軍は大量の足軽などの雑兵をかかえて戦ったが、雑兵たちには恩賞は無く、にもかかわらず彼らが軍隊に参加したのは、ある程度の略奪や暴行を行なうことが許容されていたからにほかならなかった。
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