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2017年12月17日のブックマーク (6件)

  • 刀狩令の後も村に大量の武器が残されていながら、村を平和に導いた秀吉の智慧

    前回の記事で、天正十六年(1588)七月に出された秀吉の刀狩令によってすべての農民の武器を没収されたわけではなく、現実には大量の武器が村に残されていたことを書いた。 藤木久志氏によると、「百姓の帯刀権や村の武装権の規制として」刀狩りが行なわれたが、「村の武力行使を制御するという秀吉の意図は、刀狩令とはまったく別のプログラムに委ねられた。村の武器を制御するプログラムは、村の喧嘩停止令(けんかちょうじれい)が担うことになった。」とある。(岩波新書『刀狩り』p.119) 【豊臣秀吉】 では『喧嘩停止令』とはどんな法令なのだろうか。 秀吉が制定した『喧嘩停止令』は制定法の形では見つかっておらず、いつ成立したかなど詳細についてはわかっていないのだが、農民の武力行使を制御することを目的とする法令が存在していたことは、当時の記録から確実であるという。注目すべきは、刀狩令が出る以前から、この法令の判例が存

    刀狩令の後も村に大量の武器が残されていながら、村を平和に導いた秀吉の智慧
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/17
    天正十六年七月に出された秀吉の刀狩令によってすべての農民の武器が没収されたわけではなく、現実には大量の武器が村に残されていた。刀狩令以前から農民の武力行使を制御することを目的とする法令が存在していた。
  • 農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令

    前回の記事で、凶作と飢饉が相次いだ戦国時代に、農民たちは「足軽」として雇われて戦場に行き、戦場では掠奪暴行を働いてそれを稼ぎとしていたことを書いた。 このブログで何度か紹介した『真如堂縁起絵巻』には戦場で稼ぐ足軽たちが描かれているが、この絵巻のほかにも、彼らが武器を用いて寺社だけでなく村の人々を脅して糧や家財などを奪い取っていたことが数多く記録されている。当然の事ながら、何度かこのような被害を受けた側は、武器を持って自衛することを考えざるを得なくなるだろう。16世紀には農民といえども普通に帯刀していたことは、当時の記録などで確認できる。 藤木久志氏の『刀狩り』に、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスの『日史』の一節が紹介されている。 「日では、今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者が、ある年齢に達すると、大刀(エスパーダ)と小刀(アガダ)を帯びることになって

    農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/17
    戦国時代に農民たちは足軽として戦場に行き、戦場では掠奪暴行を働いてそれを稼ぎとしていたが、このような争いを止めるためには、誰かが、より強力な武力を背景にして、相手を無力化させる施策が必要となる。
  • 戦国時代がこんなに長く続いたのはなぜか

    以前このブログで、応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次いで飢餓難民が京に流入し、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群が何度か京の街を襲い放火・掠奪を繰り返して、室町幕府は有効な対策を打たないまま応仁元年(1467)に『応仁の乱』が起きて市街戦がはじまると、両軍に雇われた足軽たちが狼藉を繰り返したことを書いた。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-464.html 応仁の乱は10年間続きその間に飢饉も起こっているのだが、なぜか土一揆は姿を消している。 藤木久志氏の『土一揆と城の戦場を行く』にはこう記されている。文中の「尋尊(じんそん)」という人物は奈良興福寺の180世別当である。 【尋尊像 (興福寺蔵)】 「…尋尊(じんそん)は、こう証言する。 彼らを傭兵として雇った東西両軍ともに、彼らにまともな兵糧=糧や給与を支払う力がない。だから

    戦国時代がこんなに長く続いたのはなぜか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/17
    凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏への端境期の戦場は、たった一つのせつない稼ぎ場であった。
  • 室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか

    前回まで2回に分けて応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次ぎ、飢餓難民が京に流入しただけでなく、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群が何度か京の街を襲い放火・掠奪を繰り返したのだが、室町幕府は有効な対策が打たないまま、『応仁の乱』が起きたことを書いた。 『応仁の乱』は、最近の教科書ではどう記されているかが気になって、『もういちど読む山川日史』で確認すると、こうなっている。 「応仁の乱 義教死後の幕府は守護大名の勢力争いの場となり、やがて細川勝元と山名持豊(宗全:そうぜん)を中心とする二大勢力が抗争するようになった。両派は、将軍義政のあとつぎをめぐる弟義視(よしみ)と義政の・日野富子のうんだ義尚(よしひさ)との争いを中心に二つにわかれて争った。 このころの相続は分割相続から単独相続へと完全にかわり、家を相続した惣領(家督)の立場が強くなったぶん、その地位をめぐり、一族や家臣団がたがいに争うこ

    室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/17
    応仁の乱が起き、室町幕府の弱体化を招いた責任の大半は、将軍家の家督争いの原因を作りながら、それを解決させないまま争いを継続させた足利義政と妻の日野富子にあった。
  • 飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か

    前回の記事で応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次ぎ、飢餓難民が京に流入しただけでなく、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群も京を目指したことを書いた。 応仁の乱が起こる39年前の正長元年(1428)に有名な『正長の土一揆』が起きている。 【馬借 『石山寺縁起絵巻』より】 Wikipediaにはこう解説されている。 「室町時代中期、凶作(前年からの天候不順)、流行病(三日病)、将軍の代替わり(足利義持から足利義教へ)などの社会不安が高まる中、近江坂や大津の馬借*が徳政を求めた。その一揆が畿内一帯に波及し、各地で借金苦に苦しんだ農民たちが酒屋、土倉、寺院(祠堂銭)を襲い、私徳政を行わせた。… 室町幕府はこれに窮し、管領畠山満家に命じて制圧に乗り出し、侍所所司赤松満祐も出兵したが、一揆の勢いは衰えず、9月中には京都市中に乱入し奈良にも波及した。 尋尊の『大乗院日記目録』には、『正長元年九月 日、

    飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/17
    応仁の乱で東西両軍は大量の足軽などの雑兵をかかえて戦ったが、雑兵たちには恩賞は無く、にもかかわらず彼らが軍隊に参加したのは、ある程度の略奪や暴行を行なうことが許容されていたからにほかならなかった。
  • 後南朝の歴史は、なぜ闇に葬られたのか

    前回は、奈良県吉野郡川上村で匿われていた後南朝の皇子の命が奪われた事件のことを書いた。この事件は「長禄の変」と呼ばれていて、決して川上村だけに残された伝承ではない。今回は、後南朝の歴史をもう少し詳しく記すことにしたい。 教科書や通史では、南北朝時代の戦乱が続いたのち、明徳3年(1392) に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で、和議と皇位継承について和約(「明徳の和約」)が成立して、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位して南北朝の合一が図られたことが記されていても、それから後も対立が続いたことについては何も書かれていない。しかし実際には15世紀の後半まで対立が続いたのだが、和約が成立していたにもかかわらず、何故こんなに長い間対立が続いたのかと誰でも思う。 【足利義満像】 Wikipediaの解説をしばらく引用する。 「そもそもこの和約は義満ら

    後南朝の歴史は、なぜ闇に葬られたのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/17
    室町幕府にとっても北朝方にとっても、反幕府勢力が南朝の皇子を担いで挙兵するようなことが何度もあっては困るので、南北朝の合一でもって両統の対立がなくなったとする物語を描き、後南朝の歴史を闇に葬った。