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慶長遣欧使節に関するshibayan1954のブックマーク (3)

  • 教皇謁見を果たしスペインに戻ると、国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3

    1615年8月22日、遣欧使節一行はスペインのマドリードを出発してローマに向かった。 この直前の8月1日付でスペイン国王フェリペ3世(画像)は、ローマ駐在大使フランシスコ・デ・カストロ伯爵に対し、支倉常長以下使節一行がローマ滞在中に援助をするように命じた書簡を送っている。 「…日における奥州の王の大使が当地に参り、今その地(ローマ)へ渡航しようとしております。その重大な目的については、彼が諸君らに直接告げるでしょう。当地で協議した用件(交渉事)は、われらの主のために非常に有益であった。朕の名において彼(支倉)を助け、彼が諸君に求めることはすべて朕が非常によく奉仕したように、貴下も同様に彼らのために最も都合の良い方法で援助するように命じます。…」(「伊達政宗の密使」p.164所収) この書簡の中で国王は支倉常長を「誠実で尊敬できる人物であり、人柄も賞賛を受けるに値し」と絶賛しているのだ。

    教皇謁見を果たしスペインに戻ると、国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/09
    使節一行はローマに75日間滞在したが、期待した成果をほとんど得ることなく1616年1月7日にローマを去り再びスペインに向かったが、ようやくスペインに戻るとインディアス顧問会議から国外退去の勧告を受けている。
  • メキシコで歓迎されず、スペインでは諸侯並に格下げされた~~慶長遣欧使節2

    前回は、伊達政宗が慶長遣欧使節をスペインやローマに派遣した経緯と、真の派遣目的についての大泉光一氏の説を紹介した。 今回は、この使節が訪れた国々に残された記録から、この使節がどういう行動を取り、派遣先の国にどう記録されているかをみてみよう。 慶長遣欧使節は慶長18年9月15日(1613年10月28日)にサンファンバウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、3ヶ月後の1614年1月28日にメキシコのアカプルコに入港した。 Wikipediaによると「3月4日、使節団の先遣隊がメキシコシティに入った。先遣隊の武士がメキシコシティで盗人を無礼討ちにし常長ら10人を除き武器を取り上げられた。」と記述されており、メキシコに着くなりいきなりトラブルからスタートしている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E9%81%A3

    メキシコで歓迎されず、スペインでは諸侯並に格下げされた~~慶長遣欧使節2
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/09
    スペイン・ローマを目指した支倉常長やソテロらは、遂に1614年10月にスペイン王国最大の商業都市セビリヤ市に到着した。スペイン国王にはイエズス会から、日本において幕府がキリスト教を禁止している情報入っていた。
  • 伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1

    学生時代に仙台藩主伊達政宗が、慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣したことを学んだ(慶長遣欧使節)。 改めて「もう一度読む 山川の日史」を読みなおすと、慶長遣欧使節に関しては「メキシコとの直接貿易をめざしたが、目的は達することが出来なかった」とのコメントがあるだけだ。 しかし、なぜ江戸幕府を差し置いて仙台藩がスペインとの交渉を直接行うことになったのであろうか。また、江戸幕府がキリスト教を禁止していた時期にもかかわらずこの使節がローマ教皇に謁見したことに違和感を覚えていた。 幕府が最初のキリスト教の禁教令を布告したのは慶長17年3月(1612)で、この時に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じ、そしてその年の8月にはキリシタン禁止が明確に成文化されて、法令として全国の諸大名に公布され、領内の一般庶民にキリシタン禁制が義務

    伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/09
    前年に公布された幕府の禁教令にも関わらず、仙台藩主伊達政宗が慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣している。この時期に政宗が慶長遣欧使節を送った目的はどこにあったのか。
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