タグ

神風に関するshibayan1954のブックマーク (3)

  • 「弘安の役」で5月に出港した蒙古連合軍が台風に襲われたのは何故か~~元寇その3

    前回までは「文永の役」について書いたが、結論として「文永の役」については鎌倉武士はよく元・高麗連合軍と戦い、「神風が吹いて敵軍を追い返した」という説は元・高麗・日の史料を読む限りは考えにくいということだ。 では二回目の元寇である「弘安の役」についてはどうなのか。この戦いについては、『元史』も『高麗史』も「暴風」があったことを明確に書いているのだが、なぜ敵軍は台風の多い時期に日に来たのかずっと疑問に思っていた。 この時遠征軍は数の上では14万人もの大軍で、中身は蒙古、(旧)南宋、高麗の混成軍である。内訳は東から日を攻める蒙古・高麗の『東路軍』4万人と、南から日を攻める(旧)南宋の『江南軍』10万人だ。 『八幡愚童記』によると、蒙古は日を占領しそこに移民するために、穀物の種や農耕具までを大量に船に積込んでいたと言う。 『高麗史』を読むと、東路軍が朝鮮半島の合浦を出発したのは(弘安4年

    「弘安の役」で5月に出港した蒙古連合軍が台風に襲われたのは何故か~~元寇その3
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    三ヶ月も戦いが長引いたために台風シーズンに突入したことを考えると、蒙古軍の作戦失敗などもあるのだが、ここまで戦争を長引かせた日本の武士の頑張りを、もっと正当に評価すべき事ではないだろうかと思う。
  • 熾烈を極めた「文永の役」の戦闘でよく闘った鎌倉武士たち~~元寇その2

    前回は、蒙古軍が最初に日を攻めてきた「文永の役」については、元や高麗の史料を見る限りでは「神風」が吹いて蒙古撤退させたとは考えにくく、最近の教科書では「神風」が出てこないことを紹介した。また当時の日側の史料には「神風」が吹いて蒙古軍を撤退させたとする記録があるのは、幕府にとっても、また幕府の要請を受けて「蒙古退散」祈祷してきた寺社にとっても、「神風」があったことにした方が都合が良かったからではなかったか、ということを書いた。 いつから教科書の内容が変わったのかは良くわからないが、私も含めて、二度とも暴風雨が蒙古軍を退散させたと学んだ世代にとっては、元寇については大規模な戦闘は行われなかったし、わが国には大きな被害はなかったというイメージが強いのではないかと思う。 しかし「文永の役」に「神風」が吹かなかったことを知ってから、「元寇」のことをもう少し詳しく知りたくなって調べてみると、日

    熾烈を極めた「文永の役」の戦闘でよく闘った鎌倉武士たち~~元寇その2
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    文永の役について『元史』では蒙古軍の撤退の理由を「統率を失い、また矢も尽き」と書いている。武器が底をつけば、これからまだまだ繰り出される日本軍には全滅することになると考えるのは当然ではないのか。
  • 「文永の役」で蒙古軍を退却させたのは「神風」だったのか~~元寇その1

    学生時代に学んだ歴史では二度にわたる蒙古襲来を終息させたのはいずれも「暴風雨」だったと記憶しているが、こんな国難の時に二度にわたり自然の力に救われたことは、人知を超えた偉大な力によって奇跡的に国が守られたようなイメージを多くの人が持つことだと思う。 「神国思想」は二度の蒙古襲来時に二度とも「神風」が吹いたと言う話があってはじめて成立するような考え方だと思えるのだが、最近の研究では第一回目の文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力なのだそうだ。 たとえば、市販されている山川出版社の高校教科書『もう一度読む山川日史』では、文永の役に関する記述は昔の教科書とは異なるようである。 「元寇」の復習も兼ねて、この教科書を引用してみる。 「1274年(文永11年) 、元は徴発した高麗の軍勢をあわせて対馬・壱岐をおかし、九州北部の博多湾に上陸した。太鼓やどらを打ちならし、毒をぬった矢や火薬をこめ

    「文永の役」で蒙古軍を退却させたのは「神風」だったのか~~元寇その1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    「神国思想」は二度の蒙古襲来時に二度とも「神風」が吹いたと言う話があって初めて成立するような考え方だと思えるのだが、最近の研究では第一回目の文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力である。
  • 1