前回までは「文永の役」について書いたが、結論として「文永の役」については鎌倉武士はよく元・高麗連合軍と戦い、「神風が吹いて敵軍を追い返した」という説は元・高麗・日本の史料を読む限りは考えにくいということだ。 では二回目の元寇である「弘安の役」についてはどうなのか。この戦いについては、『元史』も『高麗史』も「暴風」があったことを明確に書いているのだが、なぜ敵軍は台風の多い時期に日本に来たのかずっと疑問に思っていた。 この時遠征軍は数の上では14万人もの大軍で、中身は蒙古、(旧)南宋、高麗の混成軍である。内訳は東から日本を攻める蒙古・高麗の『東路軍』4万人と、南から日本を攻める(旧)南宋の『江南軍』10万人だ。 『八幡愚童記』によると、蒙古は日本を占領しそこに移民するために、穀物の種や農耕具までを大量に船に積込んでいたと言う。 『高麗史』を読むと、東路軍が朝鮮半島の合浦を出発したのは(弘安4年