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聖徳太子に関するshibayan1954のブックマーク (2)

  • 聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1

    学生時代に、遅くとも4世紀の半ばまでには大和朝廷によってわが国が統一されたことを学んだ記憶があるが、最近の教科書もおおむね同様な結論になっているようだ。 たとえば『もういちど読む山川日史』の文では「大和朝廷」という言葉は使わずに「ヤマト政権」という表記をし、「ヤマト政権」が国内統一を行なった時期については文には明確な表現がないのだが、巻末の年表で西暦300年と400年の間に、「この頃大和王権、統一進む」と書いている。 その根拠について最近の教書に書かれているのは、3世紀後半に近畿地方や瀬戸内海沿岸・九州北部に古墳が造られ始め、4世紀は前方後円墳という特異な形状の古墳が多数築かれ、『山川日史』による解説によると 「このような大きな墳丘をもつ古墳は、これまでにみられなかった新しい政治的支配者の出現を示している。その中心は大和であったが、前方後円という一定の墳丘の形が地方に広まったことは

    聖徳太子の時代にわが国は統一国家であったのか~~大和朝廷の統一1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/27
    聖徳太子は推古天皇即位後5ヶ月後に皇太子となり摂政として天皇の補佐に当たっており、『日本書紀』には「皇太子」という表記で聖徳太子の事績が記録されている。しかし遣隋使に関しては「皇太子」が出てこない。
  • 聖徳太子についての過去の常識はどこまで覆されるのか

    以前このブログで、明治4年の寺領上知の令で法隆寺の境内地が没収され、収入源も断たれたうえに廃仏毀釈で堂宇を荒らされ、雨でも降ればあちこちに水が漏るような状態になっていたことを書いた。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html この時期には僧侶の生活のために宝物を売りに出した寺院が多かったのだが、法隆寺は管主千早定朝の大英断により聖徳太子にかかわる宝物の多くを、一番安全な皇室に献納して国民の文化財を守り、1万円の下賜金を得て堂宇を修理し、金利を運営費に充てて寺院として存続できる道を開いたのである。 この時に皇室に献納した宝物は300点を超え、その中に「聖徳太子および二王子像」があり、現在皇室ゆかりの品として御物(宮内庁蔵)となっている。 この「聖徳太子および二王子像」が、現存する最古の肖像画として昔の教科書や歴史書に必ず掲載

    聖徳太子についての過去の常識はどこまで覆されるのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/26
    『日本書紀』では女帝である推古天皇の在位中であり、聖徳太子が摂政だったことになっている。ところが『隋書』では、この時期に倭国の王位にあったのは、男王であり、裴世清はこの男王に直接会って話をしている。
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