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雑兵に関するshibayan1954のブックマーク (2)

  • 戦国時代がこんなに長く続いたのはなぜか

    以前このブログで、応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次いで飢餓難民が京に流入し、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群が何度か京の街を襲い放火・掠奪を繰り返して、室町幕府は有効な対策を打たないまま応仁元年(1467)に『応仁の乱』が起きて市街戦がはじまると、両軍に雇われた足軽たちが狼藉を繰り返したことを書いた。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-464.html 応仁の乱は10年間続きその間に飢饉も起こっているのだが、なぜか土一揆は姿を消している。 藤木久志氏の『土一揆と城の戦場を行く』にはこう記されている。文中の「尋尊(じんそん)」という人物は奈良興福寺の180世別当である。 【尋尊像 (興福寺蔵)】 「…尋尊(じんそん)は、こう証言する。 彼らを傭兵として雇った東西両軍ともに、彼らにまともな兵糧=糧や給与を支払う力がない。だから

    戦国時代がこんなに長く続いたのはなぜか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/17
    凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏への端境期の戦場は、たった一つのせつない稼ぎ場であった。
  • 飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か

    前回の記事で応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次ぎ、飢餓難民が京に流入しただけでなく、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群も京を目指したことを書いた。 応仁の乱が起こる39年前の正長元年(1428)に有名な『正長の土一揆』が起きている。 【馬借 『石山寺縁起絵巻』より】 Wikipediaにはこう解説されている。 「室町時代中期、凶作(前年からの天候不順)、流行病(三日病)、将軍の代替わり(足利義持から足利義教へ)などの社会不安が高まる中、近江坂や大津の馬借*が徳政を求めた。その一揆が畿内一帯に波及し、各地で借金苦に苦しんだ農民たちが酒屋、土倉、寺院(祠堂銭)を襲い、私徳政を行わせた。… 室町幕府はこれに窮し、管領畠山満家に命じて制圧に乗り出し、侍所所司赤松満祐も出兵したが、一揆の勢いは衰えず、9月中には京都市中に乱入し奈良にも波及した。 尋尊の『大乗院日記目録』には、『正長元年九月 日、

    飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/17
    応仁の乱で東西両軍は大量の足軽などの雑兵をかかえて戦ったが、雑兵たちには恩賞は無く、にもかかわらず彼らが軍隊に参加したのは、ある程度の略奪や暴行を行なうことが許容されていたからにほかならなかった。
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