前回の「GHQ焚書」で、アサヒカメラ編『兵隊の撮つた戦線写真報告』という本の後半部にある火野葦平の「僕のアルバム」のなかから、火野自身が撮影した何枚かの写真を紹介させていただいた。彼の経歴についてはWikipediaに詳しく記されているが、彼は大正十五年(1926年)に早稲田大学英文科に入学し、在学中に労働運動に参加して検挙されたのち転向を表明したというが、この時の転向は本物ではなかった。その後、在学中の昭和三年(1928年)二月に福岡歩兵二十四連隊に幹部候補生として入隊したのだが、レーニンの訳本を発見されたため一階級下げられて、十二月に除隊となっている。 彼の父・金五郎は石炭仲士玉井組の親方であったが、大学を退学させて彼に家業を継がせようとした。その後彼は左翼関係書を読み耽るようになり、昭和六年(1932年)には若松港沖仲仕労働組合を結成してその書記長となり、八月に洞海湾荷役のゼネストを