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ブックマーク / shibayan1954.com (5)

  • 火野葦平が戦友に訴えたかったこと~~『戦友に愬ふ』(GHQ焚書)を読む

    前回の「GHQ焚書」で、アサヒカメラ編『兵隊の撮つた戦線写真報告』というの後半部にある火野葦平の「僕のアルバム」のなかから、火野自身が撮影した何枚かの写真を紹介させていただいた。彼の経歴についてはWikipediaに詳しく記されているが、彼は大正十五年(1926年)に早稲田大学英文科に入学し、在学中に労働運動に参加して検挙されたのち転向を表明したというが、この時の転向は物ではなかった。その後、在学中の昭和三年(1928年)二月に福岡歩兵二十四連隊に幹部候補生として入隊したのだが、レーニンの訳を発見されたため一階級下げられて、十二月に除隊となっている。 彼の父・金五郎は石炭仲士玉井組の親方であったが、大学を退学させて彼に家業を継がせようとした。その後彼は左翼関係書を読み耽るようになり、昭和六年(1932年)には若松港沖仲仕労働組合を結成してその書記長となり、八月に洞海湾荷役のゼネストを

    火野葦平が戦友に訴えたかったこと~~『戦友に愬ふ』(GHQ焚書)を読む
    shibayan1954
    shibayan1954 2023/09/24
    かつて共産主義の闘士であった火野葦平は転向後昭和12年に支那事変に応召し、その従軍記である『麦と兵隊』など多くの作品を残しているが、戦場で書いた『戦友に愬ふ(うったう)』という本がGHQに焚書処分されている。
  • 火野葦平が支那事変に出征した際に撮影した写真~~『兵隊の撮つた戦線写真報告』(GHQ焚書)より

    火野葦平「僕のアルバム」 GHQが焚書処分したリストの中に、昭和十五年に朝日新聞から刊行されたアサヒカメラ編『兵隊の撮つた戦線写真報告』というがある。このは、支那事変で戦った兵士たちが撮影した写真を集めたものだが、途中からは火野葦平(ひの あしへい)の「僕のアルバム」となり、火野自身が撮影した写真が彼の解説とともに多数収録されている。火野は写真は素人ではあると自ら語っているのだが、兵士や支那人の表情をよく捉えていて、いい写真が少なくないのだ。今回は火野の撮影した写真をいくつか紹介することとしたい。 火野葦平は昭和戦前・戦後期に活躍した小説家で、昭和十二年(1937年)に支那事変に応召し、出征前に書いた『糞尿譚(ふんにょうたん)』は第六回芥川賞受賞作となった。その後報道部へ転属となり、十三年に彼が戦地で書いた徐州会戦の従軍記『麦と兵隊』(GHQ焚書)が大ベストセラーとなり、続けて書いた『

    火野葦平が支那事変に出征した際に撮影した写真~~『兵隊の撮つた戦線写真報告』(GHQ焚書)より
    shibayan1954
    shibayan1954 2023/09/22
    『兵隊の撮つた戦線写真報告』という本は、支那事変で兵士たちが撮影した写真を集めたものだが、途中から火野葦平の「僕のアルバム」となり、火野自身が撮影した写真が彼の解説とともに多数収録されている。
  • GHQに焚書処分された台湾高砂族の子供たちの日本語文集

    GHQ焚書のリストの中に『拓け行く皇民 高砂族児童綴方選集』というがある。今回はこのを紹介することと致したい。 「高砂(たかさご)族」というのは広義には台湾原住民のことをいうが、多くの種族に分かれていて、いずれもマライ・ポリネシア系のインドネシア語派に近い言語を話していたが、お互いに言語が通じなかったためにそれぞれの種族が独立して生活していて、種族同士が相戦うこともあったようだ。 十七世紀に鄭成功が、植民地を作っていたオランダを追放して東寧王国を設立し、その後清国が同王国を破り台湾島を併合して以降、多くの漢人が移住して台湾島の人口は漢人が多数を占めることとなるのだが、一部の原住民は漢化したものの多くの原住民は漢化しなかったという。当時清国は、漢化した原住民を「熟番(蕃)」、そうでないものを「生番(蕃)」と呼び、後者の多くは山地に居住し、近代文明に浴さずに伝統的な生活を営んでいたようだ。

    GHQに焚書処分された台湾高砂族の子供たちの日本語文集
    shibayan1954
    shibayan1954 2023/09/22
    「高砂族」とは台湾原住民のことをいい、かつては近代文明に浴さずに伝統的な生活を営んでいた。日清戦争のあと台湾島は日本に割譲され、我が先人たちの苦労が実を結び、彼らは日本に親近感を持つようになった。
  • GHQが焚書処分した中国人留学生の手記『支那の少年は語る』を読む

    今回紹介したいGHQ焚書は、戦前に日に留学していた中国人たちの手記をまとめた『支那の少年は語る』(大日雄弁会講談社 昭和16年刊)である。編者の渡辺泰亮は新潟県の尋常高等小学校の校長を務めたのち、陸軍参謀部の依頼により中国の要人らの子弟二十数名を教育した人物である。 支那事変後わが国に多くの支那の少年たちが留学してきた 同書の「はしがき」によると、支那事変が勃発する前から中国からの留学生は非常に多くいて、事変勃発後に一時激減したのだそうだが、その後再び増加して東京だけで千数百名の留学生がいたという。 『支那の少年は語る』より 支那事変が始まってからに、数多くの中国の少年達が日に留学するため来日したというのだが、どの程度の年齢の者が多かったのだろうか。編者は次のように記している。 少年諸君が、大志を抱いて留学したということは、恐らく開闢(かいびゃく)以来始めてのことであろう。 第一、

    GHQが焚書処分した中国人留学生の手記『支那の少年は語る』を読む
    shibayan1954
    shibayan1954 2023/09/22
    日中戦争が始まって以降数多くの中国の少年達が留学のために来日し、彼等の手記をまとめた『支那の少年は語る』(昭和16年刊)がGHQに焚書処分されている。なぜ中国の少年達が親元を離れて遠い日本を目指したのか。
  • 英国艦隊に多大の損傷を与え上陸を許さなかった薩摩が、英国との和解交渉を進めた理由~~薩英戦争3

    勝利をしたのはどちらなのか 文久三年七月二日(1863/8/15)の 薩英戦争で英艦隊は想定外の被害を受け、その報復として鹿児島の中心部を砲撃し、市街地を広範囲に焼き払い、上陸もせずに錦江湾を去って行った。 普通に考えれば敵軍の上陸を許さず退却させた側の勝利であるのだが、薩摩藩には相手の被害状況を知る術があるわけではなく、自軍にもかなりの被害が出ていた薩摩藩には、勝利したという実感はなかったようだ。 薩摩藩の家老・川上但馬の感想が、徳富蘇峰著『近世日国民史. 第50』に出ている。 何分にも敵の照準が的確なところから、我が薩摩方は祇園洲砲台をはじめ、他の方もみな砲身を破砕せられ、砲口を撃鎖せられ、廃物に帰せしめられた。なお一日も戦争が継続せば、ゆゆしき一大事が到来するのであった。しかし天祐にも暴風雨にて、終わりに沖小島の砲撃を浴びせたから、やや我々も形勢を挽回したようにも見えたが、しかも市

    英国艦隊に多大の損傷を与え上陸を許さなかった薩摩が、英国との和解交渉を進めた理由~~薩英戦争3
    shibayan1954
    shibayan1954 2020/07/13
    薩英戦争で英艦隊は薩摩軍の砲撃を受け多くの犠牲者が出たために、上陸することもなく錦江湾を去った。薩摩藩の中からこの戦いを冷静に振り返り、兵器格差は歴然としており、英国と和解しようとする動きが出て来た。
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