河合 徳三郎(かわい とくさぶろう) 初代:(1870年6月13日(明治3年5月15日)[1] - 1937年12月3日)日本の実業家、映画プロデューサー、政治家。土木請負業で財をなした後、河合映画製作社社長、大都映画社長として多くの映画制作に関わった。また、民権新聞社社長、東京府会議員、東京府参事会員、大和民労会会長なども務め、「天下の河合」と呼ばれた。女優の琴路美津子、三城輝子、大河百々代は娘、河合亞美は曾孫。俳優のハヤフサヒデトは義理の息子。本項で解説。 2代:初代の長男。生誕時の名は篤文、後に覚太郎。初代の死去後、徳三郎の名を継いで大都映画の経営にあたった。 1870年(明治3年)、かつて徳川義宜の家臣であった河合吉次の五男として生まれる[2]。生誕時の名前は角太郎であったが、兄(四男)の徳三郎が死去してからは名が徳三郎となった[3]。1885年(明治18年)ごろ、それまで暮らして