サイエンスライターというのは、一般には、科学的な記事や書籍を市民向けに書く仕事だ。 昔は、マイナーな職業だったし、そんなに多くはなかった。市民向けの科学啓蒙書は、専門家(大学の先生)が片手間に書くことが多かったと思う。専門家の書く啓蒙書というのには、今思い返せば、良い本が少なかった。なぜなら、専門家の多くは、一般の人が何に興味を持っているかをわかっていない。その上、大学では、「わかりやすい講義」というのが課せられなかったので、(今はそうでもないので、過去形で書いた)、一般読者がどう書くとわかりにくく、どう書くとわかりやすいのか、無頓着な人が多かったからだ。そんななか、数少ないサイエンスライターの書いたものは、一定の成果を挙げていたと思う。でも、言い方は悪いが、「アウトロー」な立場は否めず、決して、望んでする仕事ではなかったのではないか、という印象があった。きっと、本当は専門家になりたかった
科学的実在論(かがくてきじつざいろん、英: Scientific realism)とは、科学哲学におけるモノの存在に関する立場の一つ。「科学的なモデルの中に登場する電子や光子や波動関数といった対象は、実際に、そのような形で、存在しているのだ」とする考え方のこと。存在論上の立場の一つでもある。 科学的実在論の主要要素[編集] 科学的実在論には二つの基本的立場がある。第1は、理想的な科学理論にはどんな要素が必要かということに関わる(後述)。理想的な理論とは、科学を通じて形成することが目標になっている理論のことを指す。第2に、科学は将来的に理想的理論によく類似した理論を生み出すだろうと考えられており、実際にいくつかの領域においてはこの目標を実現してきたということである。ここで重要なのは、ある科学領域においては科学的実在論を奉じる人が、別の領域では実在論者でなくなるということがあり得るということで
2012年01月19日11:40 カテゴリ科学/文化 サイエンス2.0 クルーグマンのブログ経由で知ったが、ResearchGateというウェブサイトが注目されているそうだ。これは専門的な論文を投稿するSNSで、研究者だけにユーザーを限定し、その論文を互いに査読するものだ。NYタイムズもいうように、これはレフェリーの代わりに「多くの目」で論文をチェックするサイエンス2.0である。 自然科学の世界では、一刻でも早く成果を公表しないと業績にならないので、昔からネットニュースは速報の場になっていたし、arXivはディスカッションペーパーのプラットフォームである。2006年には、PerelmanがarXivに投稿したDPがフィールズ賞の授賞対象になった(本人は拒否)。 学術誌の査読は、一部の一流誌以外はちゃんと読んでいない。人数は少なく報酬はわずかだし、同業者の論文にいちゃもんをつけて落としたり、
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ソフトウェアの設計は僕の仕事の一部なんだけど、モデリングとか高水準の設計手法とかに興味がない。いや、正確に言うと、そのテの手法とか流儀とかには、僕を苛立たせるものがあって、精神衛生のために避けている傾向があるってことです。 参照の必要があって、モデリングや設計手法の情報をWebや書籍で調べると、たいていはイライラしてきて最後まで読みきれず、腹を立てて放り投げてしまいますね。 なんでか?と言うと、僕が嫌いな「悟り」や「ヒラメキ」の要素が含まれることがあるからです。「最初は意味不明でも、我慢しているとある日わかってしまう」ような体験 -- それを想定しているような説明がほんとに嫌いなんです。「ある日わかってしまう」経験は僕にもあります。でも、それは僕の能力が足りないからです。つまり、本来なら分かるはずのものが「理解力の不足ゆえに分かってなかった」という事実があるだけ、「遅れて理解した」という事
名古屋大学の文学研究科は、人文学研究科に改編されました。 文学部・人文学研究科・旧文学研究科に御用の方は以下のHPをご覧ください
先週の記事で『エイズを弄ぶ人々』をご紹介しましたが、同書は疑似科学が今日力を得ている原因の1つとして、インターネットの存在を挙げています。一部の関係者が情報の取捨選択を行うマスメディアに対し、ネット上ではありとあらゆる情報を公開することが可能であり、しかも検索エンジンによってそれらを瞬時に呼び出すことができます。それだけに、従来であれば人の目に触れることなどなかったであろう過激な意見を容易く手に入れることができ、しかもその意見を強化するような情報(実は全く科学的ではない方法で得られたものであったり、改ざんされたりしている情報なわけですが)まで掘り出すことができるわけですね。実際に一度トンデモ情報に心を奪われてしまった人々は、誰かに反論されても「あなたの信じている意見は正しいですよ」と囁いてくれる情報を検索して、心を落ち着かせるというパターンにはまってしまうようです。 では検索エンジンではな
昨今の経済学は科学か?という論争に絡めて、Mark ThomaがHal Varianの「What Use is Economic Theory?」と題された1989年の論文を紹介していた。以下はその概要。 経済学理論を審美的な観点から捉える人もいるが、そうした観点だけでは経済学理論というものの全体像を掴んだことにはならない。経済学は政策科学であり、従って経済学理論も経済政策の理解と遂行への貢献という観点から評価されるべき。 経済学が他の自然科学や社会科学と違うのは、人々の生活の改善をもたらす政策について説明する、と謳っていること。もちろん自然科学も人々の生活水準向上に貢献するが、それは、研究対象の機能の理解という本来の知的活動の副産物に過ぎない。 多くの方法論者は、経済学のそうした本質を見誤っている。経済学は、物理学ではなく工学、生物学ではなく医学と比較されるべきものなのである。ケインズが
という議論がここ1週間ほど欧米ブロゴスフィアを賑わせている。きっかけは、Modeled BehaviorのAdam Ozimekのこのエントリらしい(ただ、このエントリも、その前の晩のTwitter上の議論を受けたものとの由)。 結構長いエントリだが、ごく簡単に要点をまとめると 経済学における証明は不十分だと言われる。しかし、証明に関してそのような厳しい基準を経済学に適用するのであれば、他のあらゆる思想体系に関しても同様の基準で臨むべきだろう。そうした場合、医学、歴史、生物学、心理学、刑事裁判、気象科学といった分野における世間にとって重要な思想体系も、実は多くが薄弱な根拠に基づくことが明らかになるのではないか。 経済学の中には、部分的には非科学的に見える過程もあるかもしれないが、科学的手続きにおけるすべての過程が科学的に見えるとは限らない。 経済学の各種のパラダイムがこれまで実証結果によっ
昨日紹介したAdam Ozimekのエントリでは、Russ Robertsが1月に書いたブログエントリを議論の出発点にしていた*1。しかし、そのRobertsのエントリは、ScienceBlogsの「Mike the Mad Biologist」によってかなり手厳しく批判されている(H/T Econospeak)。以下ではそれを紹介してみる。 I have often said that economics, to the extent it is a science, is like biology rather than physics. Let me try to make that clearer. By biology, I do not mean the study of the human cell, which we have made a great deal of pr
◎「教育としての科学史・科学哲学議論」 http://togetter.com/li/3251 『専門家の人達にお願いです。一般人が「物を知らない」ことを嘆くのはわかりますが、「まず、こういうのを読むといいよ」というのを教えてくれると、一般人もとても助かると思います。一般人の私は、そういう取っ掛かりさえない状態に置かれています。』 ○私が『科学哲学』について知りたい動機→ まとめへの反響を追加。「反証可能性などの基礎的な事項」への賛同(と思われるRT)が多い http://togetter.com/li/106303 ※当面は「公開」と致します(編集権は私のみとします)。 ♪コメント欄への記入、どうぞお願いします。もしくは、@飛ばしていただけたらどんどん追加します。 続きを読む
経済学者 | 安田洋祐(やすだようすけ) のブログ。久々にデザインを変更しました!(2016年1月28日) 追記アリ(24日1時30分) 先日『天才竹内教授はかく語りぬ』でご紹介した『統計学と経済学のあいだ』竹内啓(1977年)から、今度は第4章の「経済学の科学性について」の一部を引用させて頂きます。前回の記事と合わせてお楽しみ頂ければ、と思います。(前回の第1章は書下ろし原稿でしたが、今回の第4章は『現代思想』1977年4月号からの転載とのことです。) 理論と現実 「科学」というものの本質的な性格の一つは、いかなる理論体系もいわば仮のものtentativeであって、必ず後の発展によってのり越えられるということである。ニュートン力学などの場合には、その正しさは200年間全く疑われることなく、現在でもその有用性は失われていないけれども、そういう意味で、ほとんど「真理」といってもよいほどのもの
たとえ更新が遅くても気長に見てください。また、ここの特徴として、一旦書いた記事を修正して再投稿する事もあります。 コメントは承認制です。コメントを書いてもなかなか反映されない時には「コメントを見ている暇が無いのだな」と思ってやってください。 ===コメントされる方は、節度を守る様お願い致します。名無しやダブハン、マルチポストは御遠慮ください。頂いたコメントは、私の気まぐれにより無警告で削除したりしなかったりします。予めご了承ください。=== 1.これまでの展開と私の見解 「掛け算の順序論争」というものがある様だ。どうやら、かなり以前(1970年台頃)から繰り返し出ている話題らしい。 先週末くらいにTwitterでやり取りしている方々がいらしたと思ったら、早速幾つかとぅぎゃったになっていた(例えばこれとか)。色々拝見した結果、この件に対する現時点での私の考えは、以下の通り。 1)順序にこだわ
このブログは、専門外の人間が外から密輸した理屈で、正しいことを正しいと主張することを禁止する風潮を批判するためのものである。そんな私にとってどうしても看過できないのが、今回の「掛け算の順序」騒動だ。詳細は以下を参照。 かけ算の5×3と3×5って違うの? - Togetter 特に、応用数学を専門とし、中高の数学教諭の専修免許も持ち、さらに子供時代に遠山啓の本で数学に親しみ現在も遠山啓の著作集が本棚に並んでいるというような私としては、まるで掛け算の順序を区別することが遠山啓の意にかなっているかのごとく喧伝される*1のは我慢がならない*2。 この件については、上記togetterで既に、学識豊かな方々が大抵の論点には触れてくださっているので、私は今まで余り触れられていない論点 「積は一般に非可換」という言説の妥当性 交換法則の証明は必要か 「定義」や「立式のルール」をどの程度遵守すべきか 北海
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