----------------------------------------------------- 作曲:細江慎治(めがP)作詞:Nima絵師:CLAMP動画制作:三原一郎 (敬称略)フルバージョン:sm6629509----------------------------------------------------- 絵師からお手紙 → http://www.clamp-net.com/topics/detail/433.html
海外に出ると,日本と海外との違いが見えてくるということがよくある。数年前の米国駐在時,娘の同級生の誕生会に参加したとき「各国の誕生日の歌(Happy Birthday to You)を聞きたい」というリクエストには戸惑った。韓国やメキシコでは現地語版があるらしく,同級生とその親がそれぞれ歌ってくれたのだが,いざ自分の番になって「日本では英語で歌う」というと場が白けてしまった。今思えば,その場で適当に日本語をあてて歌っておけばよかったと思うのだが,後の祭りである。それにしても,誕生日のメロディは万国共通な存在で,国ごとの歌があることはそれまで知らなかった。 逆にうれしく思ったこともある。米シスコシステムズのジョン・チェンバースCEOは,取材後の雑談で「本社に顧客を招いて,その声を直接ヒアリングする取り組みを始めた。これはトヨタに学んだことだ」と話してくれた。日本では当たり前に行われていること
まず事実として、陵辱ゲームの根底には、社会になお存在する性暴力の非対称性と差別的な意識があるということについて疑うことはできないでしょう。そのことをふまえて想像すれば、たとえば「黒人だけを撃ち殺すゲーム」は当然規制の対象になるでしょうが、「ゲームの黒人は現実の黒人と違うからいいんだ」とか、「オレはリアルでの差別はひかえるけど自然と湧き上がるこの差別感情は否定できないからせめてゲームで差別させてくれ」という理屈が通用するかといえばしないと思います。個人あるいはきわめてクローズドなサークルでやる分にはともかく(規制のしようがない)、少なくとも市場の流通には乗せられない。「黒人差別ゲームがなくなったからといって黒人差別がなくなるわけではない」という意見はある意味ではそのとおりでしょう。しかしやはりゲームは規制されると思います。 難しいのはもちろん、陵辱ゲームにおける性差別的な価値意識は、黒人殺し
(6月6日付エントリの続きである、6月8日付エントリの続き) 板坂耀子氏の「私のために戦うな(弦書房、2006年12月25日発行)」の117ページに「ありふれたパターン」と題された章に、こんな記述がある。 昔から恋愛映画のクライマックスになると、どんなに優しくおとなしい男性と強く積極的な女性のカップルでも、男性が女性を抱き寄せ、女性はそれに抵抗し、そして最後には必ず男の胸を押しのけ叩いていた女の手は男の首にからまって、二人はベッドに倒れ込み、結局のところ幸せになる、と指摘する。(略)これまでの映画は、国も時代も問わず、男女のラブシーンといえばまずはもう必ず、男が抱き寄せ、女が押しのけ、そして最後に女の抵抗が終わってめでたし、という図式を踏襲しつづけてきた。(略)大抵の人間なら、繰り返し見せられれば、恋愛とはこういうものと思い、それに自分を遭わせるように学習するのが普通だろう。「現実が芸術を
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