今週は『本』特集ということで、今日は図書館についてです。 まずは、図書館利用にまつわる読者からのエピソードを紹介します。 離婚した元夫の家族は読書習慣がなかった トピシュさんのブログかTwitterを見ていて、図書館利用について、私の元夫(Sさん)と元夫の弟さんとのやり取りを思い出しました。特にほっこりするという話ではないかもしれませんが、お送りします。 まず、前提なんですが、 Sさんのお父さん、Sさん(長男)は同じ工業団地で働く Sさん弟(次男)も製造工場の契約社員 とどっちかといえば、ブルーカラーです。ちなみにSさんのお母さんは小売で販売員の仕事をしてらっしゃったそうです。 そこで本題ですが、Sさん弟さんにはお子さんがいらっしゃって、ドラえもんの漫画を中学生になってもひたすら読み続けて、他の活字を読まないのをSさんが心配してたんです。 私からは「そんなに心配するなら、中学生が好みそうな
亡くなったモハメド・アリ氏と日本との関わりとして知られるのは、昭和51年、「世紀の一戦」とも呼ばれた、プロレスラーのアントニオ猪木氏との日本武道館での対戦です。その後もアリ氏と猪木氏の交流は続きました。 その後もアリ氏と猪木氏の交流は続き、平成10年に猪木氏のプロレスの引退試合が東京ドームで行われた際には、難病のパーキンソン病を患いながらもアリ氏が駆けつけ、リングで花束を贈っていました。 モハメド・アリ氏が亡くなったことについて、プロレスやボクシングの興行が定期的に行われる東京・水道橋の後楽園ホールの近くでは死を惜しむ声が聞かれました。 56歳の会社員の男性は、「猪木との異種格闘技戦を家で見たが、当時は衝撃的な試合でした。今の格闘技の草分け的な戦いをした人で、時代が終わったという感じで、残念です」と話していました。また、42歳の会社員の男性は、「パーキンソン病を患いながらアトランタオリンピ
先月、金沢市で小学2年生の男の子が「宿題をしなかったことへのしつけ」だとして、母親に山道で置き去りにされ、一時、行方が分からなくなっていたことが分かりました。男の子はおよそ3時間後に無事、発見されましたが、警察は、両親に口頭で厳重注意するとともに心理的な虐待の疑いがあるとして児童相談所に通告しました。 警察や消防が付近を捜したところ、置き去りにされてからおよそ3時間後に、数百メートル離れた山林で、しゃがみ込んでいた男の子を発見しました。男の子にけがはありませんでした。 警察が母親に事情を聞いたところ、「宿題をしなかったので、しつけのために山道に連れて行き、車から降ろした」と話したということです。警察は、男の子の両親に対して口頭で厳重注意するとともに、心理的な虐待を加えた疑いがあるとして、児童相談所に通告しました。 児童相談所は今後、両親への指導など対応を検討することにしています。
多賀城市南宮の内館館跡(うちだてたてあと)で、室町時代後期の堀に囲まれた屋敷跡が見つかった。発見の契機となったのが航空写真の分析で見つかった農地のクロップ(農作物)マーク。埋没している遺構の影響で農作物の成育に違いが出ており、その場所を調べるとマーク通りに堀の跡が見つかった。市教委は4日午後1時半から現地説明会を開く。 クロップマークは、JR東北線陸前山王駅から北西約1.5キロの水田で確認された。航空写真では、幅2~3メートルの二重の堀に囲まれた隣接する2区画の形がうっすらと浮き上がって見えた。 堀の内側にあった井戸跡などからは、漆器のわん、すり鉢型の土器、木製のげた、ひしゃくなどの生活用品が出土。柱を立てた穴も数カ所確認され、有力者の屋敷跡と推定された。 多賀城市西部は、鎌倉時代の陸奥国府留守所(るすどころ)の長官の子孫で、代々この地を治めた「留守氏」の屋敷跡がある。内館館跡は、室
プロボクシングの元世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリ氏が3日、アメリカ西部・アリゾナ州の病院で亡くなりました。74歳でした。 アリ氏は、世界チャンピオンとして通算19回の防衛を果たすとともに、人種差別の撤廃を訴えました。引退後は、難病のパーキンソン病を患い、闘病を続けていました。
日本を元気にする会はこれまで代表を務めてきた松田公太氏が政党助成法上の政党要件を失った責任を取りたいとして辞任し、アントニオ猪木・最高顧問が新たな代表に就任しました。 松田氏は「政党要件をもう一度回復させるため、さまざまな交渉をしてきたが、実現することができなかった。私の力不足をおわび申し上げたい」と述べました。 一方、代表に就任したアントニオ猪木氏は「いろいろな問題が山積しているが参議院選挙に向けて、熱心に力を合わせて、努力しながら、新しい元気を発信していきたい」と述べました。 アントニオ猪木氏は73歳。平成元年の参議院選挙で当時のスポーツ平和党の党首として比例代表で初当選したあと、平成25年の参議院選挙の比例代表で、当時の日本維新の会から立候補し、2回目の当選を果たしました。その後、次世代の党を経て、日本を元気にする会に入党しました。
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